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みんなの「0 前史」ブログ


とりあえず序章を移しました

2006/11/24 02:01
fruitsブログから記事を移そうとしたら、
そのブログがまたおかしくなって、数日見れなくなってました
もうあっちはだめだなぁきっと…
昨日やっと復活したので、今日序章の部分だけ移して、
少し記事を書き足しました
また時間を見つけて第一章を移して、
終わったら続き(「Come on Let's Dance」くらいから)を書き始めようと思います


そういえば触れてませんでしたが、
2007年のtributeが決まりましたね
うれしくないこともないけど、
同時に、まともな活動が不可能なことを実感させてくれる知らせでした


まだ詳細は分かりませんが、やるんなら何か目玉くらいは作って欲しいです
前回の、めったにやらない曲をやるっていうのは、
たしかにtributeでしかできない企画でしょうから、意味はあったと思いますが、
今回も同じコンセプトではどうかと思うし、
単に昔の曲を演奏するだけというならば、
本当に遺産で食いつなぐだけの過去のアーティストです
いや、すでにそうなんですけどね…


でもどうせこういう不完全な形のライブをやるんならば、
tributeでしかできない前向きなコンセプトを、
建前でもいいから出して欲しいものです
とりあえずそこらへんが明らかになったら、またコメントしようと思います
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0-7 小室・木根・ウツその後

2006/11/24 01:38
1981年から1983年の間、木根・ウツはSPEEDWAY、
小室も自分のバンドをやりながら、作曲・演奏の仕事をこなしていた
特に小室の仕事に関しては、現在でもある程度追うことができる


この頃の小室のバンドは、小室哲哉&STAYと言った
バンド名から見て、小室がリーダーだったようである
橋本洋子という女性がボーカルを取った
フュージョン系のバンドで、ダンスサウンドを中心としていたようだ
The Beatlesの「Let it be」のダンスバージョンなどを演奏していたという


STAYには専属のギターはいなかったが、
北島健二がギターで参加したこともあったらしい
ファンには周知の通り、北島は後にFence of Defenseを結成する
またSTAYの少し後、1982年には、
香港のサミュエル・ホイ(許冠傑)のアルバム「難忘您・紙船」で、
小室と共にレコーディングに参加している


STAYに話を戻すと、
イラプションからSPEEDWAYまで一貫してロックを追及してきた小室だったが、
ここで一度別の方向に舵を変えたようだ
小室は後にダンスミュージックに積極的に取り組んだが、
(特に1986、1989、1991〜95、2001〜04)
この頃もそのような時期だったのだろう
それはおそらくTM NETWORKにもつながる動きと思う


polytopeさんの情報によると、
(本記事および「0-3 小室哲哉と音楽の出会い」コメント欄
1981/6〜1982/1頃に渋谷のライブハウスで活動していたことが知られる
この頃の「ぴあ」の記事を以下に引用する

・1981/6/27 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/7/29 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/8/29 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/9/26 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/10/16SHAFT@渋谷屋根裏昼の部(SHAFT=真樹村サトシ(vo,g),小室哲哉(key),岡本英利(b),サミュエル岡本(ds))
・1981/10/17小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/12/28小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/1/17小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部


興味深いのは最後のSPEEDWAYとのジョイントライブであろう
再結成したSPEEDWAYとの縁(というより木根との縁)は、
まだ続いていたわけである


この後、1982年1月以後は
少なくとも「ぴあ」では、
STAYの活動の様子はうかがえなくなる
この頃を最後に活動を休止したのだろう


なお小室は5年間早稲田大学に在籍したとされるが、
入学は1977/4だから、1982/4には除籍されたはずである
(そもそも通学していなかったが)
周囲から色々といわれることもあったようだが、
音楽業界の中に入ることについて、
この頃の小室はすでに決意していたであろう


小室はまた、音楽業界の様々な仕事も引き受けた
自らのバンドだけでなく、プロミュージシャンのサポートも行ない、
CM曲作りや演奏・インタビューなども行なった


現在知られるところでは、
たとえば白竜のバックバンドやレコーディングへの関与がある
(1981年リリースの「Asian」「光州City」など)
後に1999年、小室は白竜に「take a deep breath」を提供しており、
意外と長い関係である
1980/12/311981/12/31には白竜のサポートで、
内田裕也主催の「Asakusa New Year Rock Festival」にも出演している


安岡力也「ホタテのロックン・ロール」(1983年)もある
この曲は小室の編曲・演奏である
「おれたちひょうきん族」の企画からレコード化したもので、
原曲は「マンガジョッキー」というテレビ番組で使われた内田裕也作詞・歌の、
「マンジョキロックンロール」である


実はTKの演奏



この頃の小室は、内田や白竜など、
後には考えられないミュージシャンと関係している
後にギズモメンバーの柴田昭寛も内田裕也のバックバンドに入っているので、
おそらくはBow Wowの縁で内田の人脈とつながったのだろう
ついでに「ひょうきん族」関連でいえば、
桑田佳祐作曲「あみだばばあの唄」でもキーボードを演奏している
桑田・小室の組み合わせも、今では考えられない


またこれは時期がはっきりしないのだが、おそらく1980年代前半の頃、
(知っている人がいたら、教えてください)
小室は原田真二のバックバンドのクライシスで、サポートを務めていた
小室は正式加入のためにオーディションを受けたが、落選したという
ちなみにクライシスには1980年、北島健二が参加している


1982年頃は、デビュー当時の村田和人のサポートも行なっていた
TM NETWORK時代のサポートメンバーである阿部薫とはこの時に出会った
あのねのねや角松敏生のサポートもこの頃である
おそらく小室は他にも様々なミュージシャンと関わっていたはずで、
また自らのバンドも持っていたというから、非常に精力的である


小室と木根の関係も、依然として続いていた
木根はSPEEDWAY解散直後と思われる1981年4月頃には、
西条秀樹のバックバンドのポップンロールバンドに所属する一方で、
小室から作曲・演奏の仕事などをまわしてもらっていたという


小室と木根の共同の仕事としては、
Serica with DOGのアルバム作成がある
Sericaはボーカル芹川智一をリーダーとするバンドである
彼らは小室と知り合い、約一年をかけてデモテープを作成した
彼らのデビューはその半年後というが、
デビューは1983/9/21、アルバム「CAUTION」なので、
1982年半ば頃からデモテープ作成を始めたのだろう


このデモテープはTKブーム期の1997年、
「-DEMO-」として通販限定で販売された
ウツ・木根がコーラスで参加しており、
SPEEDWAY脱退後の小室と二人の関係を知ることができる
ちなみに「-DEMO-」にある「Anthem of Kids」「Anthem of Kids #2」は、
この頃小室がはまっていたTOTOの「Childs's Anthem」のオマージュだろうか


Serikaがロックバンドだったため、アルバム全体はギターの印象が強いが、
「-DEMO-」オープニングの「Welcome to Rock Land」などは、
小室のプログレ趣味とポップ性をまるごと反映したインストナンバーである
現存する小室インスト曲では「ACT 810」に次ぐ作品となるが、
「Rainbow Rainbow」期のTMにつながる要素を見出すことも難しくない
逆に言えば、デビュー当初のTM NETWORKの音は、
デビュー前の下積みの蓄積が前提となっていたということでもあろう
デビュー決定の頃には、
すでにミュージシャンとしておおよその完成に達していたともいえよう


Sericaは1983年には小室のプロデュースで、
アルバム「CAUTION」でデビューするが、
木根はこのアルバムでも楽曲を提供し、レコーディングにも参加している
Sericaは後に小室哲哉の執行猶予判決後の2009/6/18、
「CAN TRY AGAIN...to TK」をネット配信限定でリリースしている(作曲木根)


なお参考までに、「Arena 37℃」1984年5月号には、
小室が「プロデュース、作曲、アレンジ、スタジオ・ミュージシャン活動(パンタ、上田正樹、セーラ、遠藤京子、田村ケン、ラビ、サミエル・ホイ、セリカwith DOG、工藤順子等)をやっていた」と紹介されている
ただ自分には、名前を見てもよく分からない人がほとんどである
今触れたサミエルとセリカ以外では、工藤順子は、
1984/3/21リリースのデビューシングル「茜色のカーニヴァル」
小室が演奏・アレンジを担当している


そんな中で小室が木根にもちかけた話があった
マイクというオーストラリア人をボーカルに、2人で作曲をするという形で、
グループを組もうというのだ
SPEEDWAY再結成とほぼ同時期というので、
1981年終わりから1982年初め頃のことであろう
(前章での考察に従い、SPEEDWAY再結成を1981年後半とする)
木根はこの話に乗り気で、 SPEEDWAYをやる傍ら、小室の計画にも関わり続けた


この頃作った曲が、
後に「Childhood's End」に収録される小室の名バラード「TIME」である
ウツがテープを聴いて気に入り、
TM NETWORKの曲としてアルバムに収録することに決まったものである


原曲の歌詞やアレンジは知るすべもないが、
「TIME」に関しては、ボーカルを聞かせる控えめなアレンジがすばらしい
特に好きなのは、サビの「That's The Darkest Night 愛せない」のところだ
しとやかな雰囲気から一転して、ここで一気に感情をほとばしらせる
他のTM曲には珍しい構成だが、1982年頃の作風だったのかもしれない


「TIME」は影の薄い曲だし、あまりライブでもやらないが、
1989年のリプロダクションシングルリリース時、
この曲も「Kiss You (Kiss Japan)」のカップリングとして入っており、
メンバーも気に入っていたのだと思う
「Passes So Slowly」というバージョンで収録)
ウツは「Childhood's End」リリース時、一番好きな歌だったらしい
松本孝弘も、「Dragon The Festival Tour」で初めてTMのサポートを努めた時、
一番好きな曲だったという


しかしこの時の2人の計画は、結局実現しなかった
マイクのビザが切れてしまい、国外退去処分を受けてしまったからである
前後関係を見るに、1982年頃のことであろうか


この頃、小室は自分の曲をテープに入れて様々なところに配っていた
そんな中、EPIC/SONYの小坂洋二と親しくなる
1982年秋のことだった
小坂は後にTM NETWORKのプロデューサーとなる人物で、
当時佐野元春を売り出していた


しかし小室がこの頃作っていたのはシンセのインスト曲であった
小室は小坂に、これでは売り出せないと言われる
やはりボーカルは必要だった
そこで白羽の矢が立ったのがウツである


話をもちかけられたウツも含め、
3人で最初の話し合いが行なわれたのは1983年3月のことだった
ここから小室・木根・ウツの3人は、TM NETWORK結成に向かっていく
そのことは第一部(1983-85年)で述べることにして、
ここでは最後に、SPEEDWAYの最終的な解散について触れて、
序章を締めくくることにしよう


おそらく木根は、当初は小室の企画が形になるか確証もなかっただろうし、
可能性の一つとして考えていたに過ぎないのだろう
しかしそれが次第に形になってきて、
しかもバンドの要であるボーカルを引き抜くというところまで話が及ぶと、
木根はSPEEDWAYと新ユニットの、
どちらを取るかという選択を迫られることになったはずである
実際に木根はこのことについて悩んだことを本の中で書いている


小室が悩む木根の決心を促したことについて、エピソードがある
小室がSPEEDWAYのライブ会場まで録音機を持って来て、
まだ木根から話を聞いていなかったメンバーの前で、
今日が最後のライブになるから録音しようと言ってのけたという
若き日の小室の行動力には、驚くばかりである


最終的には、木根とウツはSPEEDWAYを去り(当然事実上の解散)、
TMを選ぶことになった
ある段階まではSPEEDWAY復活の可能性も考えたかもしれないが、
デビューが確実になった1983年8月で、解散は決定的となった
しかしこの点についても、SPEEDWAYの公式サイトは沈黙し、
「1982年解散」(ここでも年代をずらしている)と記すのみである

(2006/8/5執筆 2006/11/24・2008/9/8・2009/9/8加筆)

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0-6 SPEEDWAYの解散と再結成

2006/11/24 01:24
SPEEDWAYは1980年10月某日、新宿RUIDOでライブを行なった
11月5日の「Base Area」発売に先駆けたものである
このライブは、SPEEDWAYにとって重大な日になった
というのも、小室がSPEEDWAYを解散しようと言い出したのである


やっと作ったニューアルバムの発売を前に、
解散の話になってしまったのである
なぜ小室がそんなことを言い出したのかは分からないが、
実際にライブをやってみて、
SPEEDWAYで音楽をやることの限界を感じたのだろう
結局小室が抜けたSPEEDWAYは、まもなく解散してしまう


解散してしまったSPEEDWAY


公式サイトによるとSPEEDWAYは、
この後に京都・大阪・金沢などでライブを行なったらしい
これらのどれに小室が同行したかは不明だが、
(金沢には小室も行ったらしい)
小室がいなくてもしばらくは活動を続けたのかもしれない
だがいずれにしろ小室なしでは、
「The Esther」でレコード会社と契約切れになっていたバンドである
残ったメンバーだけでは、プロとしての活動を続けることは無理だっただろう


SPEEDWAY解散後、メンバーはめいめい活動を続けた
ウツはサウスウェルというバンドに入った
木根が言うには、SPEEDWAYの弟分のようなバンドだった


木根はSPEEDWAYに対する思いを捨てきれず、
1981年春、プロとしての契約はないままで、SPEEDWAYを再結成する
ウツも再び呼ばれ、サウスウェルのボーカルはごく短期で終った
サウスウェルのボーカルには、代わって山本英美(男性)が加入した
山本は後に1987年にソロミュージシャンとしてデビューし、
現在まで木根と関係を持ち続けている人物である


なおGAUZEさんの情報によると(本記事コメント欄)、
「アサヒグラフ」1981/7/17付けの号の特集「屋根裏のロック」で、
サウスウェルの写真が掲載されているという
ウツも含め全員Gパンで青のアロハシャツを着ており、
写真はギターの立岡正樹のソロの場面らしい
立岡は後のTM NETWORK二代目マネージャーで、
現エムトレス(ウツの事務所)の代表である
撮影の日時は不明だが、
ウツは6〜7月頃にはサウスウェルにいたのであろう


ただ6〜7月頃にウツがサウスウェルにいるのに、
SPEEDWAY再結成が春というのは不自然な感もある
これは木根の「電気じかけの予言者たち」によるものだが、
木根の記憶違いがある可能性もある
イラプションの件でも勘違いがあることは、別章で述べた通りである


むしろ春はSPEEDWAY解散の時期で、
その後ウツがサウスウェルに参加したと考えた方が理解しやすい
新年度(4月)にSPEEDWAYがレコード会社に契約更新を拒否され、
解散の憂き目に遭ったと考えれば、
前後の状況とも整合的に理解できる
もっともこの点は確認する材料がない


確実な点のみ述べれば、
ウツは6〜7月頃にサウスウェルにおり、
次に見るように12月にはSPEEDWAYにいることから見て、
SPEEDWAY再結成は1981年後半らしいということである


ともかくSPEEDWAYは解散後数ヶ月の間隔を置いて、
小室を除いた形で活動を再開することになった
ここでパーカッションの荒井カツミが再参加する


polytopeさんの情報によると、「ぴあ」で1981年12月以降翌年まで、
SPEEDWAYが渋谷・原宿などを拠点に、
継続的に活動していた様子を知ることができる
「0-3 小室哲哉と音楽の出会い」「0-7 小室・木根・ウツその後 」コメント欄)
ただし1982年10月以降の情報は未確認である
(なお以下に見える小室哲哉 and STAYについては、次章で触れる)


・1981/12/28小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/1/17小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/2/21 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/3/7 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/4/10 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
・1982/5/8 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
・1982/6/26 HELLO、WEEKIDS、SPEEDWAY@原宿クロコダイル
・1982/6/27 SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
・1982/7/25 サウスウェル、SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
・1982/7/26 SPEED WAY@原宿サンビスタ
・1982/9/11 坂本めぐみ、SPEED WAY@原宿クロコダイル
・1982/9/16 SPEED WAY、IKUMI BAND@立川38 avenue


これを見るにSPEEDWAYは、1982年前半までは渋谷屋根裏を、
その後は原宿や吉祥寺を拠点としたらしい
公式サイトによればこの時期のSPEEDWAYは、
「屋根裏、EGGMAN、シルバーエレファント等ライブハウス」で活動した
屋根裏は渋谷、シルバーエレファントは吉祥寺のライブハウスで、
上記にも見える
EGGMANは渋谷EGGMAN(1981オープン)だろうが、
上記には見えないので、
上記以外のライブ活動もあったに違いない


なおSPEEDWAY公式サイトでは、
1981年の解散・再結成の事実は触れられず、
小室が脱退して荒井が参加したという様に、
メンバーの変更があっただけのように書いている
深読みすれば、SPEEDWAYのオリジナルメンバーにとって、
途中参加の小室に振り回され解散に追い込まれた事実は、
書きたくないことなのかもしれない
一部のメンバーが小室に対して良い感情を持っていなかったことは、
木根が語っている


90年代頃の木根の発言に拠れば、
木根はTMのルーツをSPEEDWAYと思っているが、
小室は違うと言っていたらしい
木根にとって、
長い積み重ねの中でプロデビューにこぎつけたSPEEDWAYへの思いは、
強くて当然である


一方で小室にとっては、
SPEEDWAYでの活動期間は所詮一年未満であり、
またこの前後にも様々なバンドで活動していたらしいから、
それまでのキャリアの一つに過ぎなかった
特にTKブームの真っ最中だった小室にとって、
SPEEDWAYが特別な存在ではなかったとしてもおかしくはない


躊躇無く解散を主張し、新たな可能性を見出そうと考えたのも、
そうした立場の違いによるものだったのだろう
昔の縁を大事にする木根と、無駄と判断したら即座に動く小室
TM期以降もこの2人の行動パターンが変わっていないことは、
折に触れて感じるところである


ただし1996/11/24、
SPEEDWAY特別ライブ「〜夢まで翔んで〜Only One Night Dream Away」では、
小室は参加しないまでも、海外から楽屋に電話してきており、
やはりある程度の思いはあったのだろう
小室が参加しなかったことは、
当時もっとも多忙な時期であったことを考えれば仕方ないことだし、
そもそもSPEEDWAY解散の事情からも、
参加は難しかったのかもしれない


また2007年、小室の一声でTM NETWORKが再開した時、
コンセプトとされたのは、
あのままSPEEDWAYを続けてサードアルバムを作ったらどうなっていたのか、
ということだった
SPEEDWAYの曲がiTunesで配信されるようになったのを小室が聞き、
曲の良さを再認識したことがきっかけだったらしい
小室にとってのSPEEDWAYの位置が、
この頃になって再浮上したようである


そもそも小室がSPEEDWAY時代を肯定的に振り返ることは、
これ以前にはほとんどなかった
だが2006年頃の小室は大量のプロデュースワークもやめ、
DJTK名義で過去曲のリミックスを中心としていた頃であり、
自らのルーツに対しての意識が高まってきたものと思われる

(2006/8/5執筆 2006/11/24・2008/9/8追記)

SPEEDWAY
よしもとアール・アンド・シー
2007-12-05
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0-5 Base Area

2006/11/24 01:15
いよいよ2ndアルバムの発売が決まったSPEEDWAY
まず先行シングル「Captain America」が発売された
A面が木根、B面の「Smile Again」が小室作曲となる
続いてアルバム「Base Area」が発売された
1980/11/5のことだった


ここでメンバーにも出入りがあった
ドラムの杉本ユウ、パーカッションの荒井カツミが脱退し、
ドラムのHATA☆KENが加わった
HATA☆KENは阿部晴彦とともにスクランブル・エッグを組んでいたメンバーである


小室以外は相変わらずカーリーヘアー



率直に言って「Base Area」は、
完成度の点で「The Esther」よりもはるかに上である
普通にいいアルバムである
原曲自体も良いのだろうが、
オケやアレンジの面で大いに向上している印象がある
もしもSPEEDWAYの作品を聞いてみたいのならば、
ベスト版などではなく、まずは「Base Area」単品を買うべきである
半分の曲が「The Esther」のベスト版よりも良質である


たとえばこのアルバムの代表曲として、
木根作曲の「Captain America」がある
若さに溢れた、聞くだけで盛り上がってくる良曲で、
シングルになったのも納得できる
心地よいミディアムテンポで始まるAメロ、
キーボードの音を強調したBメロから、サビの盛り上がり
ドラムやギターの音も自己主張しすぎておらず、上品な仕上がりだ


ただこの曲は、実は前作の「夢まで翔んで」と同じ系統に分類できると思う
違うのはアレンジの質で、
余計な効果音が耳障りな「夢まで翔んで」とは雲泥の差だ
「夢まで翔んで」がアレンジで台無しになったのなら、
「Captain America」はアレンジで魅力が引き出された
小室加入はSPEEDWAYにとって大成功だったといえよう


アルバムタイトルは、東京の米軍基地の名前にちなんでいる
当時ここにはライブハウスがたくさん立ち並び、
そこでのアメリカ人との交流は、
洋楽にあこがれる彼らにとって刺激的なものだったという
このアルバムはタイトルからして、
アメリカ的なものを自ら再現しようとしたものであることが分かる


アルバムの全体的な雰囲気は、アメリカンロックで、
前作「The Esther」のポップさを残しながらもロックの雰囲気を強めている
一方で歌謡曲臭さはほぼなくなっているが、
小室の参加が如実に反映されたと言って良いだろう
(ただ逆に洋楽のコピーのような感じはするのだが)


曲数は9曲
1曲は小室のインスト曲、
あとは小室・木根が4曲ずつで、半分ずつとなっている
SPEEDWAYの3枚目のアルバムというコンセプトで作ったTM NETWORK「SPEEDWAY」でも、
小室6曲(インスト3曲含む)、木根5曲で、ほぼ半分ずつであり、
あるいは「Base Area」のバランスをモデルにしているのかもしれない


一曲目を飾るのは、小室作曲の「Oh! Mistake」
おそらくTMしか知らない人がこの曲を初めて聞くと、
結構驚くのではないだろうか
TM期のウツのボーカルは、どちらかというと無機質で、
あまり感情を込めない冷静な雰囲気という印象が強いのだが、
この曲のウツからは、感情があふれている
曲も「Gorilla」期とは違ったファンキーさにあふれている
こんなウツがあったのか、小室がこんな曲を書くのかと、自分は驚いた
あえてTM期で言えば、
「Rainbow Rainbow」「カリビアーナ・ハイ」が近いだろうか


この雰囲気は、「Oh! Mistake」一曲のみに限らない
木根曲の「Nobody Knows」も、同系統の曲である
感情的なウツのボーカルという点では、「Michael」(小室曲)が出色である
洋楽風のロックバラードに乗せたウツの熱いボーカルが絶妙な名曲である


これに対して「Close Your Eyes」「Smile Again」(どちらも小室曲)は、
どちらかというと後のTMに近い雰囲気といえるだろう
「Smile Again 〜Anytime You're My Love〜」は、
ドラムとキーボードで始まるイントロが印象的である
小室のはまっていたTOTOの「Hold The Line」のイントロに似ている


「Close Your Eyes」は小室節の原点のような曲だ
ポップな曲調に長い間奏など、後の小室的要素が盛り込まれている
1996年のウツソロツアー「Tour easy attraction」や、
2008年の「TM NETWORK play SPEEDWAY and TK Hits!」でも、
「Close Your Eyes」を歌っている
今でも聞きやすい曲として、選曲としてはベストだと思う


「Love Goes On」「Dreamlike Tale」は、いわゆる木根バラ
どちらも木根のいい面がうまく引き出されている
「The Esther」では、木根曲は10曲(全曲)で、
バラードは2曲だったが、
「Base Area」では全4曲中バラード2曲で、
明らかにバラードの割合が上がっている
TM期には木根曲はアルバム一枚に付き、
バラード2曲、非バラード1曲くらいが平均だが、
木根のバラードメーカーとしての立場が強くなるのはこの頃である


なお「Base Area」は非常に洋楽的な雰囲気のするアルバムで、
当時小室が聞いていた海外ミュージシャンの影響を受けていると思われる
70年代洋楽に詳しい人なら、
元になったジャンルやミュージシャンを指摘できるかもしれないが
残念ながら自分はそのような知識がない


だが一曲だけ、小室作曲のインスト曲「ACT 810」が、
TOTO「Child's Anthem」の影響を受けていることは分かる
「Smile Again」「Hold The Line」の関係も併せ、
この時代の小室のTOTOへの傾倒を示すものだろう


小室がTOTOにはまっていたことについては、本人の証言もあるが、
小室のポップな曲風の源流の一つであろう
(もう少し後にはDuran Duranも)
ちなみにTOTOのサイモン・フィリップスは、
後にTMの「Major Turn-Round」のレコーディングの際に、
ドラムを担当している
(ただしサイモンは初期TOTOのメンバーではないが)


なお1996/11/24、
「夢まで翔んで―Only One Night Dream Away」という、
一度限りのライブをやった時に、
メンバーのSPEEDWAY時代の曲の評価をうかがわせる発言があった


ウツは「Love Goes On」を「いい曲ですね」と評価しており、
これがTMにつながって行ったんじゃないかと言っている
また「Captain America」「Smile Again」を演奏したいという、
小室の電話コメントもあった
ちなみに個人的には、
「神話」「Captain America」「Michael」あたりが好みである

(2006/8/5執筆 2006/11/24・2008/9/8加筆)

BASE AREA
EMIミュージック・ジャパン
2006-09-29
SPEEDWAY
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0-4 Rockin' on the 月光仮面

2006/11/24 01:04
フリースペースのメンバーと小室は、地元も近かったから、
音楽活動を続ける中で以後もお互いを意識し続けただろう
そんな中でウツ・木根と小室が一緒に音楽を始めることになるのは、
1980年のことだった
それは1年前にデビューしたSPEEDWAYのデビュー作「The Esther」が、
失敗に終わったためである
売り上げは数百枚という水準だった
この事態の打開を図るために、外から小室を呼ぼうということになったのである


この時小室を誘うことを提案したのは青木高貴である
古くから木根と付き合いがあり、SPEEDWAYの作詞にも関わっている
青木氏はこの後、TM結成時にもマネージャーとして、
3人と長く付き合うことになる


小室が最初に取り掛かった仕事は、
「Rockin' on the 月光仮面」のアレンジだった
SPEEDWAYが語られる時、
「夢まで翔んで」と並んでネタとして挙げられる曲である
ただジャケットは、洋楽チックな作りで、
お笑いとしか思えない曲名が書いていなければ、
それなりにかっこいいかもしれない


ひそかに左上に月光仮面


有名な月光仮面の主題歌をリメイクしたもので、
シングルとしてリリースされた
ウツがまじめに「月光仮面はだれでしょう〜」と歌っているのは、
初めて聞いた時は衝撃だった
(というか、これを書きながら聞いている今も、少なからず衝撃を受けている)


武田食品「プラッシー」のCMタイアップ用に作られたもので、
これを作れば2ndアルバムを出すというのが、
レコード会社からの条件だったようだ


木根は後に月光仮面の仕事を回顧して、
とにかくいやだったがやむを得ない仕事だったことを強調している
実際にSPEEDWAY唯一のタイアップ曲にもかかわらず、
後に出る2ndアルバムには収録されていない
カップリング曲の「ダンシング・ライダー」については、特に不満だったようだ
小室も作詞・作曲者との打ち合わせから帰った時、
「最低」と仲間内にもらしたという


「ダンシング・ライダー」の作詞・作曲者は、
「月光仮面は誰でしょう」原曲を作詞した川内康範
原曲名は「山あり谷あり」という
川内氏は、晩年に森進一の「おふくろさん」の件でニュースで騒がれたことでも、
記憶に新しいであろう
多くの演歌の作詞とともに、
「にっぽん昔ばなし」「死ね死ね団のテーマ」など、
子供向けのTV番組楽曲もしばしば作詞した
この時小室に提示された曲には「ジーパンはいた赤トンボ」もあったが、
これよりマシということで、小室は「山あり谷あり」を選んだ


しかし聞いてみると、「ダンシング・ライダー」も、それほど悪い曲ではない
ロック調のキーボードソロで始まるイントロ、洋楽っぽいサビ
むしろ「The Esther」の曲よりも出来が良いのではないか


ただAメロはやはりイマイチである(歌詞も曲も)
「ダンシング・ライダー」は小室がとにかくアレンジに苦労した曲で、
コードやメロディまで変えて、
イントロと間奏しか印象に残らないようにしたというが、
あるいは本来の「山あり谷あり」は、
出来のイマイチなAメロだけなのかもしれない
(この部分の歌詞に「山あり谷あり」と出てくる)

あてのない旅 山あり谷あり
傷つきながら 夢も見るだろう
道はとおい
Anytime Dreaming Makes Me Real
Anytime Dreaming Makes Me Real


サビの部分は「Anytimie〜」と、英語の歌詞になっているが、
当時60歳という年齢や、他の川内作品の歌詞から考えても、
川内氏のセンスとは思えない
この部分は小室が付け加えたのではないか


もしもAメロの部分だけが原曲だとしたら、
そこから「ダンシング・ライダー」全体を作り上げる小室の発想力には、
驚かざるを得ない
「Rockin' on the月光仮面」も、曲名と歌詞だけ聞くと失笑を禁じえないが、
オケは割とまともだ
小室は後にTMライブで、
原曲からは考えられないようなライブアレンジを次々と披露するが、
その才能はこんなところにも出ているのかもしれない(こじつけかもしれないが)


なおこの時期の小室の仕事について、もう一つ挙げておきたい
ミス・オレンジショックという女性への曲提供である
「愛しのリナ」「ア・イ・タ・イTEL」の2曲で、シングルとして発売された
演奏はSPEEDWAYである


ミス・オレンジショックが何者なのか、自分は詳しいことは分からないが、
当時のミック・ロンソンのFC会長が企画モノとして出したものだったらしい
ミュージシャンにしては歌があまりうまくないが、
かといってアイドルにしては見た目が可愛いくない
(レコードジャケットの写真はSPEEDWAY公式サイトにあるが、結構なインパクト)


曲は1980年代初頭のいわゆるテクノ歌謡に分類されるものだが、
単なるテクノ歌謡に終らず、やはり小室節を感じることができる
ボーカルを度外視して聞けば、
オケは後の小室のアイドル提供曲の原型を見るようである
後の小室の仕事につながるTMメンバーとの関係と、
女性歌手への楽曲提供は、ともにこの頃から始まるのである

(2006/8/5執筆 2006/11/24・2008/9/8加筆)

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0-3 小室哲哉と音楽の出会い

2006/11/24 00:49
小室哲哉の音楽歴は長い
もっとも専門家の訓練を受けたのは、
子供の頃に習ったバイオリンとエレクトーンくらいで、
あとはピアノもキーボードも作曲も、すべて独学によるものである
小室の楽曲は理論的に作られているというよりは、
カンと手グセによるところも多いといわれる
だがむしろ独学だからこそ、独特な音楽センスが醸成されたともいえよう


小室といえばシンセという印象が強いし、
実際にシンセは小室の中で大きな位置を占めている
小室がシンセに興味を持つことになるきっかけは1970年大阪万博で、
冨田勲指揮のシンセパフォーマンスを見たことだったという
時に小学校6年生のことだった
シンセを手に入れたのは中3の時(1973年頃)
家のエレクトーンを親に黙って売って(!)手に入れたという


小室の場合、ウツ・木根のように、
当時日本で流行っていたフォークの影響はほとんどない
中1の頃にはフォークを聞いていたこともあったが、
中2の頃から洋楽マニアになったようだ


T-Rexの「The Slider」が、
小室が自分で買った最初のレコードだった
中学校時代に放送部に所属していた小室は、
様々な洋楽のロックミュージックに触れることができた


高校の頃には早稲田実業に入学したこともあり、
学校近くの新宿周辺で刺激的な毎日を送った
ロック喫茶やライブにもよく通ったらしい
David Bowieファンのいとこも良い話し相手だった
このいとこの件は「深層の美意識」で詳しく触れられている


ロック少年としては、やはり初めはギターに憧れていたようだ
文化祭では叔父からもらったエレキギターを持ってバンドとして出演し、
The Beatlesの「Hey Jude」を演奏した
しかしギターはあまり上達しなかったようで、
高校の頃にはシンセをメインにするようになった


特に大きな影響を与えたのがプログレッシブ・ロックである
その影響は、現在に至る小室のライブパフォーマンスで、
容易に見て取ることができる


特にその影響が濃かったのは2000年頃で、
小室はTM NETWORKの「Major Turn-Round」でプログレを試みた
そのタイトルチューン「Major Turn-Round」の構成
「First Impression」「Second Impression」「Third Impression」)は、
明らかにELPの「Brain Salad Surgery」をモデルにしている


また「Kiss Japan Dancing Dyna-Mix」から、
「Rhythm Red Tour」の頃のライブビデオでは、
ライブ中に小室がキーボードに飛び乗ったりしているところを見ることができるが、
これは多分ELPのKeith Emersonのパフォーマンスをまねたものだろう
小室が非道な手段でシンセを買ったきっかけも、Keithに憧れたことだった
高校時代にはひたすらキースのプレイをまねていたという


ちなみに、
後にTMの「Self Control」に収録される「Here, There & Everywhere」と、
渡辺美里「eyes」に収録される「きみに会えて」は、
小室が中学校時代に作った曲、
渡辺美里「lovin' you」に入っている「そばにいるよ」は、
高校時代に作った曲である


小室は消費音楽の代名詞のようにいわれることがあるが、
(ほとんど言いがかりだが)
あれほどたくさんの曲を作っているにもかかわらず、
古い曲も結構大事にしている
特に「きみに会えて」は相当マイナーな曲だと思うが、
たとえば1993年に「Hit Factory」でセルフカバーしているし、
1998年、kEIKOとのアンプラグドライブでも演奏している
ちなみにこのアンプラグドライブは、
他にもマイナー曲を含め80年代の曲をたくさん演奏しており、
一部のファンには嬉しい選曲だったと思う


1974年、小室は高校の仲間たちと哀婉というバンドを結成した
ロックバンドだったが、歌よりは楽器の演奏がメインだったらしい
曲はT-Rexやプログレの楽曲だったが、
高校での流行とは違ったこともあり、あまり評価されなかったという


この頃知り合いだった学習院高校女子部の学生を通じ、
小室は業界に接触するようになった
音楽業界でのアルバイトもこの頃から始まる
小室は高校〜大学時代から、
プロの仕事を目の前で見る機会に恵まれていた
高校時代からディスコのバイトで演奏などもしていたという


1977年の2月頃、小室はイラプションというバンドを結成した
高校卒業の間際の頃だが、
エスカレーター式に大学に進める高校だったため、
小室には時間がかなりあり、
真剣にバンド活動をやってみようという気持ちになったらしい


当時都立の高校で有名だったギタリストと、
他の2人の4人で組んだそのバンドはプログレをメインにしており、
バンド名もELP「Tarkus」のオープニング、
「Eruption」から取ったものだった


イラプションは1977年の春から夏にかけて、
ギタリストが綿密に立てた計画に沿って、
様々なコンテストに出場した
小室曰く、地元では注目される存在だったという
小室の本格的な音楽活動はこの時からと言って良いだろう


小室によると、プロデビューへの登竜門とされたYAMAHA主催の「East West」には、
三回参加したという
1977年には「East West '77」の決勝に進み、
バンドとしてはダメだったものの、
小室個人としてベストキーボードプレイヤー賞を獲得した
この時にはデビュー前のSouthern All Starsやシャネルズも参加しており、
桑田佳祐がベストボーカル賞を獲得したという


ただ「East West '77」決勝大会(1977/8/27)の公式記録を見るに、
出場者に小室の名前はなく、
キーボードで受賞したのS・D・B・Fの稲田保雄である
他にも色々な点で、小室の発言と公式情報は食い違っている

・小室は優勝をサザン、準優勝はたぶんシャネルズとするが、実際の優勝者はリバーサイドとカシオペア
・小室は審査員を後藤次利とするが、公式ページの審査員12人に後藤はいない
・小室は会場を渋谷とするが、実際には中野サンプラザ


ただ小室が具体的な大会名や出場者名を挙げながら、
まったくの虚構を話すとも思えない
少なくともサザン・シャネルズが「East West '77」に出場したのは間違いない
推定であるが、おそらく小室が言っているのは、
全国大会決勝ではなく、地区大会の決勝で、
審査員や会場・受賞者が異なっているのはそのためではないか


これについて傍証になる情報を「East West '77」の公式記録から探してみるに、
サザンもシャネルズも東京B地区から出場している
東京B地区への出場者はヤマハ渋谷店とシブヤ楽器から出ており、
渋谷エリアの地区だったらしい
もしも渋谷エリアの東京B地区の地区大会決勝にイラプションが出たとすれば、
小室が会場を渋谷としていることとも整合する
また小室が優勝者であるカシオペアなどに言及しないことも、
地区大会で顔を合わせることが無かったせいと考えれば良い
(カシオペアは埼玉地区から出場)


以上、「East West '77」の件について推測をしてみたが、
この問題についてご存知の方がいらっしゃったら(サザン・シャネルズファンなど)、
教えていただければと思う


小室は「East West '77」の会場で、
コロンビアのディレクターから声を掛けられ、プロデビューも誘われた
当初はイラプションとして誘われたのが、
小室にバンドを結成させてデビューさせるという話にもなったという
この話は結局実現しなかったが、
以後様々なミュージシャンへの楽曲提供の機会を与えられるなど、
音楽業界に入っていくきっかけになったらしい


木根・ウツとの出会いもイラプションとして活動していた時期である
府中市民会館でフィルモア楽器主催のジョイントライブが開催され、
イラプションがフリースペースと一緒に出演する機会があった
木根はこれを1978年とも1979年とも言っている
この時小室は、フリースペースの楽屋まで来て、
木根にシンセを借りたという
後のTM NETWORKメンバー3人の、記念すべき最初の顔合わせである


この時小室の演奏を見ていた木根の印象は、
「ブロンドのヘアピースにシルバーの衣装で華麗な演奏を披露していた。歌詞はすべて英語だった」というものだった(「電気じかけの予言者たち」より)
演奏曲には小室がサイパンに行った時にビーチで作った曲などもあった
それをMCで聞いた木根はカチンと来たと、後に言っている
ウツは、「こいつとは友達になれないな」と思ったという
この時代の写真はたまにテレビでも出るが、
長髪を金色に染め、
ラメ入りの服にロンドンブーツという出で立ちで街を歩いていたという


なおバンちゃんさんによると(本記事コメント欄)、
1977/8/28に府中市民会館でイラプションのライブがあり、
後日楽器点で販売されたライブのテープによると、
以下の五曲を演奏したらしい

1.イラプション(インストルメンタル)
2.バリエーション オブ バ チャイコフスキー(インストルメンタル)
3.マイフェアレディ フロム サイパン リトルラブ
4.よく聞き取れない (ユダヤチュー て聞こえる)
5.エニータイム オーケー


この時、3曲目のMCで、
小室がサイパン旅行した時に作ったことが言われており、
会場とMCの一致から見て、
小室と木根の初対面はこのライブの時かと思われる


木根の言う年代(1978年か1979年)と齟齬があるが、
木根の勘違いの可能性が高いように思われる
(バンちゃんさんの写真には「FUJICOLOR 77」とプリントがあるとのこと)
「East West '77」の件も併せ、
小室は本格的な音楽活動を始めた1977/2頃から半年程で、
なかなかの活躍ぶりを見せていたようである


この後に結成されたギズモというバンドも、
イラプションと同様にプログレのバンドだった
すでにデビューしていたBow Wow(今のVow Wowの前身)の弟分で、
プロデビューこそしなかったが、ライブではBow Wowの前座を務めていた


「銀星団研究所」によると、1978年11月28日、東横劇場のライブに出演している
確認はできないが、1977年にはBow Wow「ライジングツアー」でサポートを務めたと言われており、
これが事実ならば、小室は結成一年を経ずに、
活動の中心をイラプションからギズモに移したことになる


なお「銀星団研究所」のサイトには、
ギズモの貴重な写真が掲載されている
小室を含め3人のメンバーの写真である
ギターの柴田昭寛は、現在内田裕也のバックで、
内田裕也&トルーマン・カポーティ ロックンロールバンドのギターを担当しているようである


さらに小室はこの頃話題になった覆面バンド銀星団(シルバースターズ)に、
「Digital "Cheap" Snake」という名前で参加したらしい
銀星団は1978年頃に活動を初め、
1979年から1981年にかけて3枚のLPをリリースした
銀星団はBow Wowメンバーを中心にしていたらしく、
ギズモの縁で小室も関わったのだろう


この点については、公式には明らかにされていないが、
Bow Wowファンや小室ファンの検証の結果、
ほぼ間違いないだろうといわれている
小室は匿名ではあったが、
実はSPEEDWAY以前にプロデビューしていたことになる


ただし結成当初の1978年には、まだ小室は参加していなかったらしい
(当初はキーボードがいなかった)
また「Digital "Cheap" Snake」のクレジットは、
1979/11/25リリースの「銀星団」にはあるものの、
1980/11/5リリースの2ndアルバム「SEE」には見えない
小室はSPEEDWAY加入の前後に脱退したのであろう


以上を踏まえると、大学生時代の小室の活動歴は、
だいたい以下のようになるだろう
(1980年代については、別章で触れる)

・1977イラプション
・1978ギズモ
・1979銀星団
・1980SPEEDWAY
・1981STAY
・1983TM NETWORK



大学時代(1977〜82頃)の小室



(2006/8/5執筆 2006/11/24・2007/9/13・2008/9/8加筆)

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0-2 SPEEDWAYデビュー & The Esther

2006/11/24 00:28
1979年、木根・ウツたちはSPEEDWAYとして、
東芝EMIからプロデビューを果たした
ここらへんの詳細は詳しく分からないので、ご存知の方がいらっしゃったら教えて欲しい
バンド名の由来は、映画「スター誕生」に登場するバンドの名前だという


SPEEDWAYのメンバーは以下の通り
時代のせいもあり、全員カーリーヘアーの衝撃的な風貌である

キーボード: 木根尚登
ボーカル: 宇都宮隆
ギター: 岩野光邦
ベース: 樋口潔志
ドラム: 杉本ユウ
パーカッション: 荒井カツミ

満面笑顔の木根やら、にっこりウツやら



9月5日発売シングル「Dream Away〜夢まで翔んで〜」
(B面 「Weekend Life〜Hot Summer Week End〜」)、
10月5日発売アルバム「The Esther」が、彼らの記念すべき最初の作品である
以上はSPEEDWAY公式サイトにある情報だが、
木根の「真・電気じかけの予言者たち」に拠ると、7月21日がデビューで、
自らレコード店に行ったと記している
木根の記憶の方が正しい気もするが、一応公式サイトに拠っておく


ポスターを200枚しか刷ってもらえないという冷遇ぶりだったというが、
音楽雑誌などでは紹介されたようで、
「0-3 小室哲哉と音楽の出会い」polytopeさんコメント)
ある程度の宣伝はされていたらしい


「The Esther」の楽曲から見るに、
SPEEDWAYはアメリカンポップス的な雰囲気を目指していたようである
バンド名の由来から考えても、洋楽をモデルにしていた可能性は高い
アルバムジャケットの雰囲気を見ても、いかにも70年代洋楽である


しかし個人的な感想を言えば、全体から受ける印象は、むしろ歌謡曲である
洋楽的な要素を盛り込もうとはしているが、
特に「ミズ・ミラージュ」「彼方より〜A Long Distant Love〜」「ドア」などは、
歌謡曲そのものと言ってよい
TMの「アクシデント」「あの夏を忘れない」が歌謡曲的といわれたりするが、
このアルバムの歌謡曲度は、あんなものではない


もちろんそれ自体は、良いわけでも悪いわけでもない
(好みはあるだろうが)
むしろ木根が非歌謡曲的な雰囲気を目指して作ったと思われる、
「今夜はゲーム〜Midnight Game〜」「夢まで翔んで」などよりも、
よほど自然に聞けると思う
またウツボーカルでここまで日本的な歌謡曲を聞くことができるという点でも、
希少度は高く、ある意味で、ウツファン必携のアイテムかもしれない


このアルバムでもっとも度肝を抜かれるのは、
やはりシングルになった「夢まで翔んで」だろう
ダサダサのイントロに加え、くどいほど乱打される電子ドラムの「ぽこぽーん」、
しまいにはホイッスルまで入ってきて、初めて聞いた時には衝撃だった

Dream 夢の中までぇー  Trip 翔んでみるのさぁー
燃える思いのままにぃー た・め・ら・い・などー捨ててぇー
(ピーピッ ぽこぽーん)
夢まで翔んで〜 ウーメイキンラブ
夢まで翔んで〜 も・え・つ・きるのさっ ウー


ただ「夢まで翔んで」も、曲自体はそれほど悪いわけではない
むしろ問題なのは、「ぽこぽーん」に疑問も挟まないアレンジのセンスだろう
(メンバー自身のアレンジだが)
アルバム全体としても、悪いのは曲よりもアレンジという印象が強い
特に「Super Star, Good Morning」「Just Love Story」「神話〜The Mith〜」あたりは、
今アレンジし直せば、なかなかの曲になりそうだ 
(というか、「神話」はこのままでもイケル)


アレンジについても、1979年という時代を考えれば、
実は平均的なレベルなのかもしれない
ただもしもこのバンドがTMと関係なかったら、
今わざわざ聞くことはないだろうと思う
まあまあいい曲もあるけれど、
このグループじゃないと聞けないほど個性的なものではないし、
きめ細やかな、あるいは意表をつくアレンジが施されているわけでもない
(ぽこぽーんはある意味でインパクトがあるが)


つまり当時の水準から見れば許されるレベルだとしても、
出色の作品と評価することは難しいと思う
おそらくプロとして、
地元の顔馴染み以上にファンを広げることは難しかっただろう


付け加えれば、この時代のSPEEDWAYの曲はすべて木根の作曲であるが、
やはりバラードはいいものを書く
冗談ではなく、「神話」は木根バラ名曲選の最初を飾る曲と思う
自分にとっての木根は、やはりバラード作家なのかもしれない


またウツのボーカルは、この時代から一定の水準に達している
フリースペース時代までの活動の中で、
ボーカリストとしての実力は確立していたようである


ウツも2008年のインタビューで、
SPEEDWAY時代のトーンと現在は近いと言っている
TM時代には意図的に変えようとしていたこともあったが、
SPEEDWAY時代や現在は、自然な声で歌っているとのことである

(2006/8/5執筆 2006/11/24、2008/9/8加筆)

THE ESTHER
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0-1 木根・ウツと音楽の出会い

2006/11/24 00:07
今更いうまでもないが、TM NETWOIRKは3人のメンバーで構成されている


キーボード小室哲哉
TMのリーダーを務め、かつTMの楽曲の大部分の作曲・編曲を担当

ボーカル宇都宮隆
ライブでは歌だけではなく、魅力的なダンスも披露

ギター木根尚登
時にはキーボードも演奏、作曲も手がけ、
リニューアル前にはライブでパフォーマンスも担当した


世間でTMというと、小室哲哉の率いるユニットというイメージで語られがちである
もちろん小室はTM結成の発起人であり、リーダーであり、サウンドの要であり、
彼の存在なくしてTMはありえなかった
しかし同時に、小室だけでは決してTMはありえなかっただろう


中でも木根は、世間では3人中でもっとも地味なイメージを持たれているが、
後のTMにつながる人脈は、間違いなく彼を中心に形成された
TMの前身であるSPEEDWAYも、木根を中心に結成されたものであり、
前史を語る際においては、どうしても木根を中心に語り起こすことになる


木根が音楽を始めたのは中学時代だった
木根は中学2年の頃(1971〜72年)の頃は、
学校の休み時間にフォークギターで仲間と曲作りに励む毎日だった
「風来坊」などという、いかにも当時のものと分かるタイトルの曲を作っていた
最初に組んだグループは、その仲間の一人と組んだフォークデュオだったという
この頃の木根はサッカー部でも活動しており、
バレンタインデーには学校中の女子が木根に群がるほどの人気だった


1970年代前半、木根がはまったのはフォークミュージックだった
それ以前にはグループサウンズ、以後はロックにもはまったが、
木根の心をもっともとらえた音楽がフォークだったことは、
後の彼の様々な言動からもうかがうことができる
ちなみに木根の好きなフォークシンガーベスト3は、
1位吉田拓郎、2位井上陽水、3位かぐや姫だという


木根は学校の音楽仲間の中心的存在だったらしい
なぜか木根の家は音楽に興味のある連中の溜まり場になり、
置き場のない楽器の置き場所になった
木根自身は大して楽器を買わなかったが、楽器には困らなかったという


ウツ(宇都宮)は、小学校時代から木根とクラスメートだった
木根がウツと出会ったのは、小学校二年の頃だった
ウツが熊本から多摩に引っ越した頃、
一人でブランコに乗っているのを見た時だったという
もっとも2人は、はじめからそれほど仲がよかったわけではないらしい


若かりし日のウツ



2人の親しい付き合いは、高校時代にはじまる
きっかけは、ウツが音楽を始めたことだった
なおウツは大変マイペースな性格で(これは現在までそうだが)、
音楽を始めるまでは、意外にも学校であまり目立たない存在だったという


ウツにもっとも影響を与えたのはロックンロールであり、
特にロッド・スチュアートへの憧れは、しばしば自ら語っている
しかしそんなウツも、音楽活動の始まりはやはり木根と同様にフォークだった
特に吉田拓郎や井上陽水にはまっていたらしい
1970年代前半とは、そのような時代だったのだろう
(リアルタイムでは知らないが)
ウツは中3時代にフォークギターを買い、
高校の頃にはバンドのボーカルを務めるようになった


木根は、ウツが音楽を始めたことを聞くと、
フォークデュオを組もうとウツに話をもちかけた
グループ名は、おんざろっくという
1974年、2人が17歳の時だった
(後にSPEEDWAYのメンバーとなる樋口潔志・荒井克己も、
ベース・ドラムとして参加)


「Twilight Moon」に掲載されている、
2002/4/27「Utsu Kine Solo 10th Aniversary FC Event in 合歓」
ライブレポート
に拠ると、
 「しぐれ坂」「終電車」「自業自得」「愛ちゃんの星」
 「サヨナラ五月」「花火の夜」「トマトジュース」

などという曲があったらしい


後にTMデビューのきっかけとなった曲は「1974」であるが、
これは小室にとっての1974年を題材にしたもので、
オン・ザ・ロックは直接関係ない
だが小室も同年にバンドを結成しており、
偶然ながらこの1974年という年は、
メンバーそれぞれの音楽活動の上で、大きなポイントになる年となった


このように、木根・ウツの音楽活動はフォークから始まったわけであるが、
後には様々な音楽に手を出すようになったらしい
木根は高校時代、ダンスパーティのDJをやったこともあり、
高校を卒業する頃には、ロックにも関心を示すようになった


たとえば木根は高校を卒業した後の1976年頃、
ソロコンサートをやったことがある
その時は20曲のオリジナル曲を演奏したが、
その中には20分を越すプログレの曲もあったという
木根はYesのリック・ウェイクマンを気取り、
ステージ上にキーボードを何台も並べていた
意外なことに、木根もプログレにはまった時期があったのである
この点は、後に小室との音楽的接点になったのかもしれない


また木根は1976年12月、ウツや他の仲間とともに、
フリースペースというバンドを結成した
ロックバンドだったらしい
木根はリーダーで、キーボード担当だった
TMに詳しくない人が、木根がキーボードを弾くのを見ると驚いたりするが、
木根は本来キーボードプレイヤーで、
ギタリストになったのはTMになってからである
木根がギターを弾けないのは、ある意味で仕方ないとも言える
(それにしてもギターを担当してすでに20年以上なのに…という意見もあろうが)


メンバーとしてはおんざろっくのウツ・荒井(パーカッション)の他、
ギターとしては岩野光邦(ギター)が参加したことが確認できる
ただし荒井と岩野の加入は1977年であり、
他のメンバーについては参加時期は不明であるが、
ともかくメンバーの変更はあったようだから、
現在では知られないメンバーも存在したのだろう
後のSPEEDWAYメンバーとしては、
ベースの樋口潔志(おんざろっくにも参加)とドラムの杉本ユウがおり、
フリースペースとの関係は確認できないが、メンバーだった可能性もある


フリースペースは機材の充実が売りで、
メンバーはバイト代を機材につぎ込んでいたという
ボーカルのウツだけ何も買わないのはずるいということで、
PAを買わされたというひどいエピソードもある


フリースペースは八王子を中心に活動したが、
アマチュア時代からファンクラブも結成され、
地元ではかなりの人気者だったらしい
これは本人たちだけではなく、
当時別のバンドで活動していた小室もそう言っている


フリースペースはライブ活動を続け、コンテスト参加を繰り返し、
1977/9の新星堂のイベント「レコーディング・オーディション」では、
「ライブ・ツアー」という曲で優勝したこともある
詳細は不明だが、
1978年にはラジオ局で持ち歌の「あれは夢」「悲しきドール」などがオンエアされたらしく、
それなりに注目されたようだ
他に「キューティ・レディ」「ムーライト・シンデレラ」「Please Say You Love Me」という曲もあった
おそらこのくフリースペースの活動が基礎となって、
木根・ウツたちは1979年、SPEEDWAYとしてプロデビューを果たすことになる


おそらくこの頃のことと思うのだが、
木根は渋谷屋根裏というライブハウスで、
一部に劇、二部にライブを行なうということもしていたらしい
劇はコントのようなもので、脚本はすべて木根が書いたという
アマチュア時代、メンバー6人、小室加入前というので、
もしも初期SPEEDWAYと同じ編成ならば、
木根・ウツ・荒井・岩野・樋口・杉本の6人ということになる


後にTM時代の木根は、
コメディドラマ「日本一のバンド男」(1985年「TM VISION V」)、
ラジオ企画「TM NETWORK物語」(1987年「小室哲哉のSF ROCK STATION」
イベント「Party Pavilion」(1992年)などで脚本を担当するが、
その前提にはアマチュア時代のこうした試みもあったのである
あるいは「CAROL」に始まる木根の小説家活動の前提として考えても良いかもしれない


なお木根の仲間で、いち早くプロデビューを果たした者がいた
ベーシストの阿部晴彦である
フリースペースのステージでも、ギターで参加したことがあった
仲間内でも卓越した技術の持ち主だったと言い、
20歳(1979頃)にイルカのバックバンドに採用された
まもなく他のメンバーもSPEEDWAYとしてプロデビューすることになるから、
だいたいこの頃が木根たちにとっての画期となったと言えよう


仲間内でも将来を嘱望された阿部だったが、
1980/5/18に、アレンジャーの木田高介とともに、
山梨県で自動車事故を起こし、帰らぬ人となった
一ヵ月後に日比谷野外音楽堂で二人の追悼コンサートが行なわれ、
木根・ウツ・小室を含むSPEEDWAYや、
阿部在籍のバンドのスクランブル・エッグも参加した


この時の追悼コンサートは、
かぐや姫、吉田拓郎、山本コウタロー、はしだのりひこ、小室等、上条恒彦、ザ・ナターシャセブン、倍賞千恵子、イルカなど、
そうそうたるメンバーとの競演であった
(どうでも良いことだが、同姓ということでよく並べられる小室等と小室哲哉は共演経験があったことになる)
他の出演者とのあまりの知名度の違いのため、木根たちは大変いづらかったという
なおSPEEDWAYのサイトには、
その後で行なわれた府中の児童会館の阿部追悼ライブの写真がある
当然木根・ウツ・小室も写っている(ただし写真が小さくてよく分からない)


阿部は1978年頃に小室哲哉に作詞を依頼したことがあった
阿部は木根たちの一つ下で、小室と同年代である
小室と阿部は近所の音楽仲間ということで、顔なじみだったのだろう
当時特に作詞家として注目されていたわけでもなかった小室に作詞を依頼するというのは、興味深い
その曲名は「You Can Find」という
2008年、TM NETWORKのアルバム「SPEEDWAY」レコーディング時、
この時に小室が書いた詩が見つかり、
これを元に新たな「You Can Find」が、ピアノのインストとして作曲された

(2006/8/5執筆 2006/11/24・2008/9/8・2010/12/26加筆)

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