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みんなの「0 前史」ブログ


とりあえず序章を移しました

2006/11/24 02:01
fruitsブログから記事を移そうとしたら、
そのブログがまたおかしくなって、数日見れなくなってました
もうあっちはだめだなぁきっと…
昨日やっと復活したので、今日序章の部分だけ移して、
少し記事を書き足しました
また時間を見つけて第一章を移して、
終わったら続き(「Come on Let's Dance」くらいから)を書き始めようと思います


そういえば触れてませんでしたが、
2007年のtributeが決まりましたね
うれしくないこともないけど、
同時に、まともな活動が不可能なことを実感させてくれる知らせでした


まだ詳細は分かりませんが、やるんなら何か目玉くらいは作って欲しいです
前回の、めったにやらない曲をやるっていうのは、
たしかにtributeでしかできない企画でしょうから、意味はあったと思いますが、
今回も同じコンセプトではどうかと思うし、
単に昔の曲を演奏するだけというならば、
本当に遺産で食いつなぐだけの過去のアーティストです
いや、すでにそうなんですけどね…


でもどうせこういう不完全な形のライブをやるんならば、
tributeでしかできない前向きなコンセプトを、
建前でもいいから出して欲しいものです
とりあえずそこらへんが明らかになったら、またコメントしようと思います
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0-7 小室・木根・ウツその後

2006/11/24 01:38
1981年から1983年の間、木根・ウツはSPEEDWAY、
小室も自らの音楽活動を行ないながら、作曲・演奏の仕事をこなしていた
特に小室の仕事に関しては、現在でもある程度追うことができる


この頃小室が率いていたグループは、小室哲哉&STAYと言った
1980年末から活動を始めたらしい
グループ名はJackson Browneの曲名「STAY」に由来し、
結成当初はライブの締めも「STAY」だったという


小室以外のメンバーは、ベースの玉井健之(たまいたけし、キンゾー)を除くと、
レコーディング・ライブごとにかなり流動的で、
固定したメンバーによるバンドというよりは、
小室を中心としたセッションユニットと言った方が良さそうである
参加メンバーには、別に自分のバンドを持っている者も多かった


固定メンバーに基づかない活動形態は、
友人関係に基づく大所帯のバンドだったSPEEDWAYのアンチテーゼでもあったが、
後述の小室・木根によるマイクのプロデュースにもつながるものだろう
そしておそらくこの形態は、
必要に応じてバックバンドを集めることを想定したTM NETWORKの前提となっており、
その点でSTAYの活動はTM前史として重要な位置にあるものといえる


ギターは小泉洋や北島健二が担当したこともある
小泉は以前述べたように、高校時代以来の小室の友人であり、
当初はギズモにも参加予定だった
小泉はTM NETWORKデビュー当初、マニピュレータ担当だったが、
実はもともとギタリストだった


小泉は早稲田実業に中学校時代から在籍していたが、
高校から同学校に入学した小室哲哉を入学式の日に見かけ、
何かありそうだと思い気になって、その日の内に声をかけて家に遊びにいった
この時小室は、サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにお願い」を演奏したという
これ以来小泉と小室は、高校でいつも音楽について語り合う仲間となった


北島は周知の通り、後にFence of Defenseを結成する
高校時代から凄腕のギタリストとして、地元では有名人だったという
またSTAYの少し後、1982年には、
香港のサミュエル・ホイ(許冠傑)のアルバム「難忘您・紙船」で、
小室と共にレコーディングに参加している


SPEEDWAYからも、ドラムのハタケン、パーカッションの荒井カツミが参加したことがあった
末期にはパーカッションとして水村某、
ギターとして高野浩史、ドラムとして市田雅也が参加したことが知られる
ボーカルとしては橋本洋子や吉川智子が確認されている
橋本は1986年に竹田和夫とBOYS ON ROCKSを結成し、後に結婚した
吉川は1985年にアマゾンズを結成して現在に至っている


イラプションからSPEEDWAYまで一貫してロックを追及してきた小室だったが、
STAYの楽曲はダンスミュージックを意識したものやポップス的なものが多かった
特に「On The Radio」はダンスを意識した曲だった
ドラム・ベースを中心としたリズミカルなオケ、
洋楽を意識したキャッチーな英語のみの詞などが特徴的である
STAYというグループ名自体、洋楽の曲名から取られたものだった


STAYの楽曲はインストも多く、
その中でも「Disney Land」「Empire」はライブの定番だった
「眠りについた街」など小室がボーカルを取る曲や、
「Funky Fallin'」など小室がラップを披露する曲もあった


他に現在STAYで確認されている曲名としては、
「Love is Dance」「All Summer Days」「Twinkle Star」「Lady's Smile」「Air Plane」「Blue Bird」「Rain's Fallin'」「All the Way to Love」「Past and Future」「Listen to the Music」
などがある
すでにアルバム1枚分以上の曲が存在していた


他に洋楽のカバーやディスコメドレーなどもライブで演奏された
The Beatlesの「Let it be」のダンスバージョンもあり、
後のTMのようにライブ用のダンスミックスも行なわれていたことが分かる
ライブではSPEEDWAYの「Smile Again」を、
小室がピアノ弾き語りで披露することもあったという


インストが多かったこととも関わるだろうが、長い前奏や間奏を伴う楽曲も多い
これは後のTM NETWORKにもつながる要素だろう
あるいは小室のルーツであるプログレの影響を読み取っても良いかもしれない


個別の曲について注目すると、
「Disney Land」は、後に渡辺美里に提供する「そばにいるよ」の原曲である
また「Past and Future」のフレーズは、
後にスローテンポになって、
TM NETWORK「Rainbow Rainbow」の間奏に使われた


1987年の小室の発言によれば、この頃作っていたデモテープは30曲くらいあり、
その内10曲くらいは渡辺美里やTMの曲として世に出したという
「I Wish」「きみに会えて」「嵐が丘」「Believe」など、後に美里に提供した曲の原曲は、
この頃のデモテープに入っていたと、「深層の美意識」に記されている


また後述の「Sweet Song 2001」「TIME」の他、
「金曜日のライオン」の原曲もこの頃からあったし、
「Here, There & Everywhere」も中学生時代に作った曲というので、
この頃のデモテープにもあった可能性がある
他にも現在知られている曲でこの頃作られていたものは、何曲か存在するのだろう


polytopeさんの情報によると、
(本記事および「0-3 小室哲哉と音楽の出会い」コメント欄
1981/6〜1982/1頃に渋谷のライブハウスで活動していたことが知られる
この頃の「ぴあ」の記事を以下に引用する

・1981/6/27 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/7/29 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/8/29 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/9/26 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/10/16SHAFT@渋谷屋根裏昼の部(SHAFT=真樹村サトシ(vo,g),小室哲哉(key),岡本英利(b),サミュエル岡本(ds))
・1981/10/17小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/12/28小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/1/17小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部


以上のライブ会場はすべて渋谷屋根裏となっているが、
他の会場のライブは記録に残っていないだけかもしれない
TM NETWORKの「1974」の原曲の「Sweet Song 2001」は、
小室によればSPEEDWAY時代の曲で、渋谷屋根裏で演奏したこともあるとのことだが、
木根が「1974」に触れる際もこのことにまったく言及していないことを見るに、
木根がいたSPEEDWAYのライブで演奏していたのかは疑問もある
実際にはSTAYの曲として、演奏されていた可能性が高いだろう


上記で興味深いのは最後のSPEEDWAYとのジョイントライブである
再結成したSPEEDWAYとの縁(というより木根との縁)は、
まだ続いていたわけである
なおこの頃、ギターの岩野光邦とドラムのハタ☆ケンは、
STAYとSPEEDWAY双方を掛け持ちしていた


この後、1982年1月以後は
少なくとも「ぴあ」では、
STAYの活動の様子はうかがえなくなる
7月21日には新宿LOFTで「STAY Club Party」が開催されており、
その後もライブを行なう予定だったが、
結局これ以後ライブは行なわれなかった


この前後、小室は自らの人生について思い悩むことがあったらしい
globe「Faces Places」には、
小室の人生の転機となった年代として、
1970・1981・1984・1994・1997年が挙げられている
この中で「Faces Places」リリース年の1997年を除くと、
1984・1994年がTM NETWORKのデビューと「終了」であることは明らかで、
1970年は小室がしばしば触れる大阪万博の年である
(この時に見た富田勲のシンセプレーが小室の音楽の原点)


残る1981年については諸説あるのだが、
小室は2012年のTweetで、
「初めて音楽で食べて行くのを止めようかなと思った年。その時のおばあちゃんは僕に手を差し伸べてくれたんだよ」
と述べている
1981年、小室は音楽家になることを諦めかけたというが、
逆に言えば、音楽家人生をこの年に改めて決意したのだろう
SPEEDWAY解散後、STAYで新しい可能性を求めたということかもしれない


なお小室は5年間早稲田大学に在籍したとされるが、
5年目まで大学にいたと解釈すれば、
1977/4入学の後、1981/4以後1982/3以前に除籍されたはずである
(そもそも通学していなかったが)
周囲から色々といわれることもあったらしい
上記Tweetは、大学を出てからも音楽を続けることを決意したことを意味している可能性もある
なお小室は大学の退学届を提出する時、木根についてきてもらったという
この頃から小室のお守り役的な存在だった木根の立ち位置が分かる


この頃の小室は音楽業界の様々な仕事も引き受けた
自らのバンドだけでなく、プロミュージシャンのサポートも行ない、
CM曲作りや演奏・インタビューなども行なった
この頃の小室はYMOはマニピュレーターの松武秀樹と仕事したこともあり、
それによって今後の活路がすごく見えるようになった
またこれによって、YMOのようなトリオを意識するようになったともいう


小室が関わった仕事として知られるところでは、
たとえば白竜のバックバンドやレコーディングへの関与がある
(1981年リリースの「Asian」「光州City」など)
後に1999年、小室は白竜に「take a deep breath」を提供しており、
意外と長い関係である
ライブでは1980/7/29新宿ロフトの白竜のライブでサポートを務めていたことが確認できる他、
1980/12/311981/12/31にも白竜のサポートとして、
内田裕也主催の「Asakusa New Year Rock Festival」にも出演している
この頃はSPEEDWAY・STAYを掛け持ちしていた上に、
他のプロミュージシャンのサポートとしての活動も行なっていたわけである


同時期の小室の仕事には、安岡力也「ホタテのロックン・ロール」(1983年)もある
この曲は小室の編曲・演奏である
「おれたちひょうきん族」の企画からレコード化したもので、
原曲は「マンガジョッキー」というテレビ番組で使われた内田裕也作詞・歌の、
「マンジョキロックンロール」である


実はTKの演奏



この頃の小室は、内田や白竜など、
後には考えられないミュージシャンと関係している
後にギズモメンバーの柴田昭寛も内田裕也のバックバンドに入っているので、
おそらくはBow Wowの縁で内田の人脈とつながったのだろう
ついでに「ひょうきん族」関連でいえば、
桑田佳祐作曲「あみだばばあの唄」でもキーボードを演奏している
桑田・小室の組み合わせも、今では考えられない


またより早い例では、
1980年、原田真二&クライシスの「SHINJI STAGE WAY '80」日比谷野外音楽堂公演で、
メンバー(キーボードの豊田貴志?)の都合が付かなくなったため、
一度だけエキストラでサポートを務めたこともある
この公演は木根も見に行ったという
(本記事クララさんコメントによる)
後に小室は正式加入のためにオーディションを受けたが落選した
ちなみに1980年のクライシスには、北島健二もレコーディングで参加していた


1982〜83年頃の小室は、デビュー当時の村田和人のサポートも行なっており、
TM NETWORK時代のサポートメンバーである阿部薫とはこの時に出会った
あのねのねや角松敏生のサポートもこの頃である
おそらく小室は他にも様々なミュージシャンと関わっていたはずで、
さらにSTAYとしての活動も行なっていたのだから、非常に精力的である


小室と木根の関係も依然として続いており、
木根は小室から作曲・演奏の仕事などをまわしてもらっていたという
2005年にリリースされた木根ソロシングル「My Best Friend」も、
この頃に作った曲である
木根がソロミュージシャンとして売り込むために作った曲で、
歌詞はまったく変わっているが、作曲は木根、編曲は小室だったと、
木根が後に語っている


そんな中で小室が木根にもちかけた話があった
マイクというオーストラリア人をボーカルに、2人で作曲をするという形で、
グループを組もうというのだ
SPEEDWAY再結成とほぼ同時期というので、
1981年終わりから1982年初め頃のことであろう
(前章での考察に従い、SPEEDWAY再結成を1981年末とする)
木根はこの話に乗り気で、 SPEEDWAYをやる傍ら、小室の計画にも関わった


この時の小室の構想は、曲は木根と2人で作り、
演奏はその都度うまい奏者に頼むというものだった
この発想は明らかに、
当時小室が手掛けていたSTAYの延長上にあるものであり、
同時に、後のTM NETWORKにつながるものといえる


この頃作った曲が、
後に「Childhood's End」に収録される小室の名バラード「TIME」である
原曲の歌詞やアレンジは知るすべもないが、 歌詞は英語だったという
後にウツがテープを聴いて気に入り、
TM NETWORKの曲としてアルバムに収録することに決まった


TM版「TIME」は、ボーカルを聞かせる控えめなアレンジがすばらしい
特に好きなのは、サビの「That's The Darkest Night 愛せない」のところだ
しとやかな雰囲気から一転して、ここで一気に感情をほとばしらせる
他のTM曲には珍しい構成だが、1982年頃の作風だったのかもしれない


「TIME」は影の薄い曲だし、あまりライブでもやらないが、
1989年のリプロダクションシングルリリース時、
この曲も「Kiss You (Kiss Japan)」のカップリングとして入っており、
メンバーも気に入っていたのだと思う
「Passes So Slowly」というバージョンで収録)
ウツは「Childhood's End」リリース時、一番好きな歌だったらしい
松本孝弘も、「Dragon The Festival Tour」で初めてTMのサポートを努めた時、
一番好きな曲だったという


しかしこの時の2人の計画は、結局実現しなかった
マイクのビザが切れてしまい、国外退去処分を受けてしまったからである
1982年夏にはすでにいなくなっていたというから、
この話はごく短期(1981年末〜1982年春頃)で終わったのだろう


それと入れ替わりで始まった話が、Serika with DOGのプロデュースである
Serikaはボーカル芹川智一をリーダーとするバンドである
芹川はエンジェルというバンドを解散した後に新たなバンドを結成したが、
その頃に小室と知り合い、約一年をかけてデモテープを作成した
彼らのデビューはその半年後というが、
デビューは1983/9/21、アルバム「CAUTION」なので、
1982年半ば頃からデモテープ作成を始めたのだろう


このデモテープはTKブーム期の1997年、
「-DEMO-」として通販限定で販売された
ウツ・木根がコーラスで参加しており、
SPEEDWAY脱退後の小室と二人の関係を知ることができる
ちなみに「-DEMO-」にある「Anthem of Kids」「Anthem of Kids #2」は、
この頃小室がはまっていたTOTOの「Childs's Anthem」のオマージュだろうか


Serikaがロックバンドだったため、アルバム全体はギターの印象が強いが、
「-DEMO-」オープニングの「Welcome to Rock Land」などは、
小室のプログレ趣味とポップ性をまるごと反映したインストナンバーである
現存する小室インスト曲では「ACT 810」に次ぐ作品となるが、
「Rainbow Rainbow」期のTMにつながる要素を見出すことも難しくない
逆に言えば、デビュー当初のTM NETWORKの音は、
デビュー前の下積みの蓄積が前提となっていたということでもあろう
デビュー決定の頃には、
すでにミュージシャンとしておおよその完成に達していたともいえよう


Serikaは1983年には小室のプロデュースで、
アルバム「CAUTION」でデビューするが、
木根はこのアルバムでも楽曲を提供し、レコーディングにも参加している
Serikaは後に小室哲哉の執行猶予判決後の2009/6/18、
「CAN TRY AGAIN...to TK」をネット配信限定でリリースしている(作曲木根)


参考までに、「Arena 37℃」1984年5月号には、
小室が「プロデュース、作曲、アレンジ、スタジオ・ミュージシャン活動(パンタ、上田正樹、セーラ、遠藤京子、田村ケン、ラビ、サミエル・ホイ、セリカwith DOG、工藤順子等)をやっていた」と紹介されている
ただ自分には、名前を見てもよく分からない人がほとんどである
今触れたサミエルとSerika以外では、
工藤順子は1984/3/21リリースのデビューシングル「茜色のカーニヴァル」
小室が演奏・アレンジを担当している


以上のように、1982年の小室は木根とともに、
歌手やバンドのプロデュースを目指すようになっていたが、
それとともにSTAYの活動も続け、自らのデビューも模索していた
結果論でいえば、この二つの方向性が交わったところに成立したのが、
小室と木根で曲を作りウツに歌わせる、TM NETWORKだったともいえるが、
この結論は小室が当初から想定していたものではない


小室はプロデュース業の布石およびSTAYの活動を続ける一方で、
自分の曲をテープに入れて様々なところに配っていた
そんな中、EPIC/SONYの小坂洋二と親しくなる
1982年秋のことだった
小坂は後にTM NETWORKのプロデューサーとなる人物で、
当時佐野元春を売り出していた


しかし小室がこの頃主に作っていたのはシンセのインスト曲だった
インストを中心として曲によってはゲストボーカルも迎えるという、
高中正義タイプのスタイルを目指していたもので、
STAYの延長上の音だったと見られる
小坂に聞かせた一曲と思われるのが「Groove Gear 1」収録の「Introduction」で、
小室の仮ボーカルが入っているが、このまま商品化するのは難しかっただろう


小坂は小室に、これでは売り出せないと言われる
しかるべきボーカルが必要だということだった
おそらくこれを機に、小室はSTAYの延長線上でのデビューを諦め、
固定したボーカルを加えたグループの結成を目指すことになる
そこで白羽の矢が立ったのがウツだった


話をもちかけられたウツも含め、
3人で最初の話し合いが行なわれたのは1983年3月のことだった
ここから小室・木根・ウツの3人は、TM NETWORK結成に向かっていく
そのことは第一部(1983-85年)で述べることにして、
ここでは最後に、SPEEDWAYの最終的な解散について触れて、
序章を締めくくることにしよう


おそらく木根は、当初は小室の企画が形になるか確証もなかっただろうし、
可能性の一つとして考えていたに過ぎないのだろう
しかしそれが次第に形になってきて、
しかもバンドの要であるボーカルを引き抜くというところまで話が及ぶと、
木根はSPEEDWAYと新ユニットの、
どちらを取るかという選択を迫られることになったはずである
実際に木根はこのことについて悩んだことを本の中で書いている


小室が悩む木根の決心を促したことについて、エピソードがある
小室がSPEEDWAYのライブ会場まで録音機を持って来て、
まだ木根から話を聞いていなかったメンバーの前で、
今日が最後のライブになるから録音しようと言ってのけたという
若き日の小室の行動力には、驚くばかりである


最終的には、木根とウツはSPEEDWAYを去り(当然事実上の解散)、
TMを選ぶことになった
ある段階まではSPEEDWAY復活の可能性も考えたかもしれないが、
デビューが確実になった1983年8月で、解散は決定的となった
なおSPEEDWAYの公式サイトは「1982年解散」としているが、
あるいは最後のライブは1982年末のことだったのかもしれない

(2006/8/5執筆 2006/11/24・2008/9/8・2009/9/8・2012/12/10・2016/10/6・2017/1/12加筆)

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0-6 小室脱退後のSPEEDWAY

2006/11/24 01:24
小室哲哉はSPEEDWAYに加入して、
楽曲制作で大きな役割を果たしただけでなく、
様々な企画を考えるアイデアマンとしても活躍した
その中で、全国七都市を回るツアーも計画された
具体的にどこを回ったのかは明らかではないが、
後述するように金沢・京都・大阪は含まれていたようだ


そんな中で1980年11月初め(1日か2日頃)には、新宿RUIDOでのライブが開催された
11月5日の「Base Area」発売に先駆けたものである
この日は当時のSPEEDWAYにとって重大な日になった
小室哲哉から重要な提言が行われたのである


それは、今のSPEEDWAYでは無理だというものだった
おそらくアルバムのレコーディングを経て、ライブを終えた上での結論だったのだろう
これについてウツと木根は、小室がSPEEDWAY解散を主張したと述べている
(1996年「Only One Night Dream Away」MC)


しかし2015/4/17「TM NETWORKのオールナイトニッポン」では、
小室が初めてこの件について口を開いた
これによれば小室は、たしかにあえてきつめに「SPEEDWAYは無理だ」と言ったが、
その真意は必ずしも解散ではなかったようである
すなわち7人という大所帯のバンド形式は古いから、
もっと少人数に絞るべきだと言ったとのことである
リーダーの木根とボーカルのウツ(と当然小室自身)を含む数人に絞ろうということだったのだろう
「ドラムとか要ります?」などとも発言したらしい


SPEEDWAYはフリースペース時代以来、
木根の音楽仲間によって継続的に活動を続けてきたバンドである
木根は仲間みんなでバンドを成功に導きたいと思っていたに違いない
それは逆に、音楽的に不要なメンバーであっても切ることができない構造でもあっただろう


だがシングルリリース後、
アルバム発売直前になっても売れる気配がない現実を前に小室は、
もうお友達だけで音楽をやっている場合ではないと感じたのではないか
それは上の指示で動かざるを得なかったギズモ時代や、
プロバンドのBow Wowメンバーとともに活動していた銀星団時代に培った現実的な感覚だったのだろうと思う


しかしウツと木根が、これを解散の主張と受け取ったことから見るに、
小室の考えは他のメンバーには届かなかったと思われる
木根もバンドの形態を捨てることには同意しなかった
ましてや切り捨てるべきだとされたメンバーにとっては受け入れがたいものだっただろう
しかも年下で、後から入ってきたヨソモノから言われたとなれば、なおさらである
(さすがに小室もメンバー全員の前で発言したわけではなかったのかもしれないが)
一部のメンバーが小室に対して良い感情を持っていなかったことは、木根も語っている


別の時の木根の発言によれば、
小室はSPEEDWAYをTMのルーツとする木根の考えに同意していないらしい
おそらく小室が「オールナイトニッポン」で、
SPEEDWAYの改革提言の件を話したのも、
SPEEDWAYとTMに直接の系譜関係はないということを述べたかったのだろう
つまり大所帯のバンド形式ではなくメンバーを絞るという方針を実現させたのがTMであり、
その点でTMは、むしろSPEEDWAY体制を否定した1980年の発言の延長にあると、
小室は考えているのではないだろうか


そう考えた時、同じ頃に小室が始めていたユニットであるSTAYは、
レコーディングやライブの時に必要な人員をその都度集めるという形態を採っており、
明らかにSPEEDWAY的な体制の対極にあった
そしてTM NETWORKにつながる体制は、
むしろこのSTAYの系譜を引くものと考えても良いと思う


実は1980年の間には、小室がすでにSTAYの活動を始めていたことが知られる
小室は1981/10/17のSTAYライブのMCで、
「去年の暮れくらいに二回くらいやった曲を一曲やります」と発言しており、
1980年の間にはすでにライブを二回行っていたことになる
当時の小室が考えていた音楽活動の形態はSTAYのような形であり、
SPEEDWAY的なバンド形式は「古い」と感じられてしまったのだろう


ただし公式サイトによるとSPEEDWAYは、
新宿RUIDOライブの後も、京都・大阪・金沢などでライブを行なったらしい
この中で京都・金沢には小室も行ったことが知られるので、
おそらく小室もしばらくはSPEEDWAYとしての活動を続けていたのだろうが、
その頃にはSPEEDWAY脱退も視野に入れ、次の活動を始めていたのだろう


その後SPEEDWAYは解散する
その時期は明確ではないが、
レコード会社と年度契約を結んでいたとすれば、
1981年3月の契約切れを以って活動を一区切りさせた可能性が高いだろう


少なくともウツは、それから数ヶ月後、
サウスウェルというバンドに入っていた
木根によれば、サウスウェルはSPEEDWAYの弟分のようなバンドだった
1979/11/5に新宿ロフトでSPEEDWAYと対バンを行っており、
遅くてもこの頃には活動を始めていたらしい
その後1981年頃にボーカルが抜け、ウツが加入したのだろう
ウツが言うには、助っ人のような気持ちで歌っていたという


「アサヒグラフ」1981/7/17付けの号の特集「屋根裏のロック」で、
サウスウェルの写真が掲載されている
(GAUZE氏提供資料による)
ウツも含め全員Gパンで青のアロハシャツを着ており、
写真はギターの立岡正樹のソロの場面らしい
立岡は後のTM NETWORK二代目マネージャーで、
現M-tres(ウツの事務所)の代表である
撮影の日時は不明だが、
ウツは6月頃にはサウスウェルにいたと見られる


サウスウェルの演奏風景



サウスウェルはその後、
「第22回YAMAHAポピュラーソングコンテスト」に出場した
「マイホームタウン」という曲で地区予選を通過し、関東甲信越大会まで進んだ
この時まではウツも参加していたことが知られる
だが地区大会では観客投票で落選してしまう
結局は主催者推薦枠で本選(1981/10/4)に出場できたのだが、
嬬恋村のつま恋エキジビションホールで行われた本選では別のボーカリストが歌っている
ウツは9月以前に地区大会を以ってサウスウェルを脱退したと見られる


ウツの後、サウスウェルのボーカルは山本英美(男性)が務めた
となれば、嬬恋大会で歌ったのは山本だろうか
サウスウェルは1982/7/25に吉祥寺シルバーエレファントで、
SPEEDWAYと対バンライブを行なっていることも確認できる
山本英美時代のサウスウェルはこの頃までは活動していたらしい
山本は後に1987年にソロミュージシャンとしてデビューし、
現在まで木根と関係を持ち続けている


なお「ポピュラーソングコンテスト」のグランプリは、
アラジンの「完全無欠のロックンローラー」だった
アラジンはこの曲で同年11/14にデビューするから、
サウスウェルも優勝すればデビューできていたのだろう
ただしその場合、TM NETWORKは生まれなかったことになる


この時本選まで出場したバンドの曲は、
LP「The 22nd Popular Song Contest」に収録されており、
「マイホームタウン」は作詞石坂健一郎、作曲山田晃大となっている
(GAUZE氏提供情報)
メンバーとしてはボーカルの他にエレキギター2人、ベース、ドラム、キーボードが確認できる
今後も日の目を見ることはないと思われるので、歌詞の一部を以下に引用しておこう

ひとり暮しに吹き込む風は むねの中にしみるばかり
グレーな日々につかれた時は 古い写真に目をやるのさ
あけはなす窓つかの間だけ よごれた陽ざしあびてみても
ビルの谷間のこの部屋では 空の広さはわからないよ
My Home Town おまえだけ(Set me free)
俺から捨てた街なのに
My Home Town この想い(Love is gone)
心のすみからはなれない


ともかくウツは9月頃にはフリーの立場になっていたはずである
一方の木根は1981年4月頃、
西条秀樹のバックバンドのポップンロールバンドに所属する一方で、
SPEEDWAYへの思いも捨てきれず、
春頃には自らボーカルを担当してSPEEDWAYとしてライブを行なったことがあるが、
やはりうまくはいかなかったらしい
SPEEDWAYは川村ゆう子のバックバンドとして活動することもあったが、
ボーカルは不在で、ライブを行うのは困難な状態が続いていたものだろうか
なおSPEEDWAY公式サイトでは、1981年に解散とは書いておらず、
小室が脱退して、一度脱退したパーカッションの荒井カツミが復帰したという様に、
メンバーの変更があっただけのように書いている


そのような時、木根はウツのサウスウェル脱退の話を聞いて、
再びSPEEDWAYに呼び戻した
小室は10月17日に行なったSTAYのライブで、
サポートの荒井カツミとハタケンを紹介する時に、
「SPEEDWAYってのもまだあるんですよ。そのうちやるみたいです」
と言っている
この頃にはSPEEDWAYは実質的に活動休止状態だったが、
再開予定(再開以前)でもあったようである
そして後で見るように、SPEEDWAYは12月以前に活動を再開する
つまりSPEEDWAYの本格的な活動再開は1981年10〜12月と考えられる


以上の流れをウツの立場から整理し直すと、
3月のSPEEDWAYのプロ契約切れに伴い、
4〜6月頃にサウスウェルに移籍したが9月以前に脱退し、
12月以前にSPEEDWAYに合流したと考えられる


polytopeさんの情報によると、「ぴあ」で1981年12月以降翌年まで、
SPEEDWAYが渋谷・原宿などを拠点に、
継続的に活動していた様子を知ることができる
「0-3 小室哲哉と音楽の出会い」「0-7 小室・木根・ウツその後 」コメント欄)
ただし1982年10月以降の情報は未確認である

・1981/12/28小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/1/17小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/2/21 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/3/7 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/4/10 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
・1982/5/8 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
・1982/6/26 HELLO、WEEKIDS、SPEEDWAY@原宿クロコダイル
・1982/6/27 SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
・1982/7/25 サウスウェル、SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
・1982/7/26 SPEED WAY@原宿サンビスタ
・1982/9/11 坂本めぐみ、SPEED WAY@原宿クロコダイル
・1982/9/16 SPEED WAY、IKUMI BAND@立川38 avenue


これを見るにSPEEDWAYは、1982年前半までは渋谷屋根裏を、
その後は原宿や吉祥寺を拠点としたらしい
公式サイトによればこの時期のSPEEDWAYは、
「屋根裏、EGGMAN、シルバーエレファント等ライブハウス」で活動した
屋根裏は渋谷、シルバーエレファントは吉祥寺のライブハウスで、
上記にも見える
EGGMANは渋谷EGGMAN(1981オープン)だろうが、
上記には見えないので、他のライブ活動もあったに違いない


おそらくこの頃のことと思うのだが、
SPEEDWAYは一部でコント、二部でライブを行なうこともあった
これはウツのアイデアで、
ずっとライブをやっていると行き詰るのでコントをやろうということになったという
脚本はすべて木根が書いた
木根がアマチュア時代のことと言っていることを重視すると、
1979年のデビュー以前とも考えられるが、
その頃には屋根裏での活動は確認できないので、
一応今は再結成期と考えておく
(もちろんアマチュア時代の屋根裏ライブが現在確認できていないだけの可能性もある)


後にTM時代の木根は、
コメディドラマ「日本一のバンド男」(1985年「TM VISION V」)、
ラジオ企画「TM NETWORK物語」(1987年「小室哲哉のSF ROCK STATION」)、
イベント「Party Pavilion」(1992年)などで脚本を担当するが、
その前提にはアマチュア時代のこうした試みもあったのである
あるいは「CAROL」に始まる木根の小説家活動の前提として考えても良いかもしれない


気になるのは、この時期のSPEEDWAYと小室の関係である
小室はSPEEDWAYの体勢に批判的な発言をしたこともあり、
両者の関係は複雑なものがあったことも想像できる
だが再結成当初のSPEEDWAYは小室哲哉 and STAYと対バンしていたし、
岩野光邦・ハタケン・荒井カツミはSTAYのレコーディングやライブに参加したこともある
全体として見れば、両者の関係は険悪だったというわけではないのだろう


また2007年、小室の一声でTM NETWORKが再開した時、
コンセプトとされたのは、
あのままSPEEDWAYを続けてサードアルバムを作ったらどうなっていたのか、
ということだった
SPEEDWAYの曲がiTunesで配信されるようになったのを小室が聞き、
曲の良さを再認識したことがきっかけだったらしい
小室にとってのSPEEDWAYの位置が、この頃再浮上したようである


そもそも小室がSPEEDWAY時代を肯定的に振り返ることは、
これ以前にはほとんどなかった
だが2006年頃の小室は大量のプロデュースワークもやめ、
DJTK名義で過去曲のリミックスを中心としていた頃であり、
自らのルーツに対しての意識が高まってきたものと思われる

(2006/8/5執筆 2006/11/24、2008/9/8、2012/11/27、2014/1/12、2016/10/3追記)

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0-5 Base Area

2006/11/24 01:15
いよいよ2ndアルバムの発売が決まったSPEEDWAY、
まず1980/9/5には、先行シングル「Captain America」が発売された
A面が木根、B面の「Smile Again〜Anytime You're My Love〜」が小室作曲となる
続いてアルバム「Base Area」が発売された
1980/11/5のことだった
キャッチコピーは「おい、血が熱くなってくるぜ!」


この頃にメンバーも出入りがあった
ドラムの杉本ユウ、パーカッションの荒井カツミが脱退し、
ドラムのHATA☆KEN(河鰭良成)が加わった
HATA☆KENは阿部晴彦とともにスクランブル・エッグを組んでいたメンバーである


小室以外は相変わらずカーリーヘアー



率直に言って「Base Area」は、
完成度の点で「The Esther」よりもはるかに上である
普通に良いアルバムである
原曲自体も良いのだろうが、
オケやアレンジの面で大いに向上している印象がある
もしもSPEEDWAYの作品を聞いてみたいのならば、
ベスト版などではなく、まずは「Base Area」単品を買うべきである
半分が「The Esther」の楽曲で構成されているベスト版よりも良質である


たとえばこのアルバムの代表曲として、
木根作曲の「Captain America」がある
若さに溢れた、聞くだけで盛り上がってくる良曲で、
シングルになったのも納得できる
心地よいミディアムテンポで始まるAメロ、
キーボードの音を強調したBメロから、サビの盛り上がり
ドラムやギターの音も自己主張しすぎておらず、上品な仕上がりだ


ただこの曲は、実は前作の「夢まで翔んで」と同じ系統に分類できると思う
違うのはアレンジの質で、
余計な効果音が耳障りな「夢まで翔んで」とは雲泥の差だ
「夢まで翔んで」がアレンジで台無しになったのなら、
「Captain America」はアレンジで魅力が引き出された
小室加入はSPEEDWAYにとって大成功だったといえよう


なお「Captain America」は、
後に2011年のウツソロツアー「Tour Timesmile」で演奏されている
このツアーはウツソロ20周年の前年に、ウツの歴史をすべて振り返るというコンセプトだったが、
その中でSPEEDWAY時代の曲として、これが選ばれたのである


「Base Area」というアルバムタイトルは、東京の米軍基地の名前にちなんでいる
当時ここにはライブハウスがたくさん立ち並び、
そこでのアメリカ人との交流は、
洋楽にあこがれる彼らにとって刺激的なものだったという
このアルバムはタイトルからして、
アメリカ的なものを自ら再現しようとしたものであることが分かる


アルバムの全体的な雰囲気は、アメリカンロックで、
前作「The Esther」のポップさを残しながらもロックの雰囲気を強めている
一方で歌謡曲臭さはほぼなくなっているが、
小室の参加が如実に反映されたと言って良いだろう


曲数は9曲である
1曲は小室のインスト曲、
あとは小室・木根が4曲ずつで、半分ずつとなっている
SPEEDWAYの3枚目のアルバムというコンセプトで作ったTM NETWORK「SPEEDWAY」でも、
小室6曲(インスト3曲含む)、木根5曲で、ほぼ半分ずつであり、
あるいは「Base Area」のバランスをモデルにしているのかもしれない
作詞はすべて西条俊という人物だが、職業作家だろうか
編曲は前作と同様、すべてSPEEDWAY名義で行なわれた


一曲目を飾るのは、小室作曲の「Oh! Mistake」
おそらくTMしか知らない人がこの曲を初めて聞くと、
結構驚くのではないだろうか
TM期のウツのボーカルは、どちらかというと無機質で、
あまり感情を込めない冷静な雰囲気という印象が強いのだが、
この曲のウツからは、感情があふれている
曲も「Gorilla」期とは違ったファンキーさにあふれている
こんなウツがあったのか、小室がこんな曲を書くのかと、自分は驚いた
あえてTM期で言えば、
「Rainbow Rainbow」「カリビアーナ・ハイ」が近いだろうか


この雰囲気は、「Oh! Mistake」一曲のみに限らない
木根曲の「Nobody Knows」も、同系統の曲である
感情的なウツのボーカルという点では、「Michael」(小室曲)が出色である
洋楽風のロックバラードに乗せたウツの熱いボーカルが絶妙な名曲である


これに対して「Close Your Eyes」「Smile Again」(どちらも小室曲)は、
どちらかというと後のTMに近い雰囲気といえるだろう
「Smile Again 」は、ドラムとキーボードで始まるイントロが印象的である
小室のはまっていたTOTOの「Hold The Line」のイントロに似ている


「Close Your Eyes」は小室節の原点のような曲だ
ポップな曲調に長い間奏など、後の小室的要素が盛り込まれている
1996年のウツソロツアー「Tour easy attraction」や、
2008年の「TM NETWORK play SPEEDWAY and TK Hits!」でも、
「Close Your Eyes」を歌っている
今でも聞きやすい曲として、選曲としてはベストだと思う


「Love Goes On」「Dreamlike Tale」は、いわゆる木根バラで、
どちらも木根のいい面がうまく引き出されている
「The Esther」では、木根曲は10曲(全曲)で、
バラードは2曲だったが、
「Base Area」では全4曲中バラード2曲で、
明らかにバラードの割合が上がっている
TM期には木根曲はアルバム一枚に付き、
バラード2曲、非バラード1曲くらいが平均だが、
木根のバラードメーカーとしての立場が強くなるのはこの頃である


なお「Base Area」は非常に洋楽的な雰囲気のするアルバムで、
当時小室が聞いていた海外ミュージシャンの影響を受けていると思われる
70年代洋楽に詳しい人なら、
元になったジャンルやミュージシャンを指摘できるかもしれないが
残念ながら自分はそのような知識がない


だが一曲だけ、小室作曲のインスト曲「ACT 810」が、
TOTO「Child's Anthem」の影響を受けていることは分かる
「Smile Again」「Hold The Line」の関係も併せ、
この時代の小室のTOTOへの傾倒を示すものだろう


小室がTOTOにはまっていたことについては、本人の証言もあるが、
小室のポップな曲風の源流の一つであろう
(もう少し後にはDuran Duranも)
ちなみにTOTOのサイモン・フィリップスは、
後にTMの「Major Turn-Round」のレコーディングの際に、
ドラムを担当している
(ただしサイモンは初期TOTOのメンバーではないが)


なお1996/11/24、
「夢まで翔んで―Only One Night Dream Away」という、
一度限りのライブをやった時に、
メンバーのSPEEDWAY時代の曲の評価をうかがわせる発言があった


ウツは「Love Goes On」を「いい曲ですね」と評価しており、
これがTMにつながって行ったんじゃないかと言っている
また「Captain America」「Smile Again」を演奏したいという、
小室の電話コメントもあった
ちなみに個人的には「Captain America」「Michael」あたりが好みである

(2006/8/5執筆 2006/11/24、2008/9/8、2014/1/12、2016/10/3加筆)

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0-4 Rockin' on the 月光仮面

2006/11/24 01:04
フリースペースのメンバーと小室は、地元も近かったから、
音楽活動を続ける中で以後もお互いを意識し続けただろう
そんな中でウツ・木根と小室が一緒に音楽を始めることになるのは、
1980年のことだった
それは1年前にデビューしたSPEEDWAYのデビュー作「The Esther」が、
失敗に終わったためである
売り上げは数百枚という水準だった


またSPEEDWAYはデビュー以前から、
活発にライブハウスでライブ活動を行っていたが、
荻窪ロフトと新宿ロフトについては、GAUZE氏の調査によって以下のライブが確認されている

・1979/2/18 SPEEDWAY、パイルドライバー@荻窪
・1979/3/25 SPEEDWAY、ダックシティ@荻窪
・1979/4/10 SPEEDWAY、ロケット@新宿
・1979/6/27 SPEEDWAY、広瀬友剛@新宿
・1979/7/23 SPEEDWAY、Hero@新宿
・1979/8/26 SPEEDWAY@新宿
・1979/9/18 SPEEDWAY、クロコダイル@新宿
・1979/10/2 SPEEDWAY、ジプシー@新宿
・1979/11/5 SPEEDWAY、サウスウェル@新宿
・1980/1/8 SPEEDWAY、Scramble Egg@新宿
・1980/2/4 SPEEDWAY、ベガーズ@新宿
・1980/3/10 SPEEDWAY、ZONE@新宿
・1980/4/4 SPEEDWAY、BAD SCENE、神鬼@新宿


これを見ると、SPEEDWAYは1979年7月のデビュー後になってもほとんど対バンライブで、
ワンマンライブは8月の一回のみである
自分たちだけで集客できるほどの人気は出なかったと見るべきだろう


この事態の打開を図るために、外から小室を呼ぼうということになった
後述の「Rockin' on the 月光仮面」のリリース日を見るに、
1980年初め頃のことだろう
ただしこの時点ではまだ流動的だっただろうが、
小室は一応この時点では一年だけ手伝うという約束だったという


小室を誘うことを提案したのは青木高貴である
青木は古くから木根と付き合いがあり、SPEEDWAYの作詞にも関わっており、
この後はTM結成時にもマネージャーとして、3人と長く付き合うことになる


小室が最初に取り掛かった仕事は、
「Rockin' on the 月光仮面」のアレンジだった
SPEEDWAYが語られる時、
「夢まで翔んで」と並んでネタとして挙げられる曲である
ただジャケットは、洋楽チックな作りで、
お笑いとしか思えない曲名が書いていなければ、
それなりにかっこいいかもしれない
なおジャケットには「"STAR" WAS BORN」とあるが、
これはSPEEDWAYのバンド名の由来「スター誕生」を意識したものだろう


ひそかに左上に月光仮面


曲は有名な月光仮面の主題歌をリメイクしたもので、
シングルとしてリリースされた
ウツがまじめに「月光仮面はだれでしょう〜」と歌っているのは、
初めて聞いた時は衝撃だった
(というか、これを書きながら聞いている今も、少なからず衝撃を受けている)


武田食品「プラッシー」のCMタイアップ用に作られたもので、
これを作れば2ndアルバムを出すというのが、
レコード会社からの条件だったようだ
リリースは1980/3/20である


木根は後に月光仮面の仕事を回顧して、
とにかくいやだったがやむを得ない仕事だったことを強調している
実際にSPEEDWAY唯一のタイアップ曲にもかかわらず、
後に出る2ndアルバムには収録されていない
カップリング曲の「ダンシング・ライダー」については、特に不満だったようだ
小室も作詞・作曲者との打ち合わせから帰った時、
「最低」と仲間内にもらしたという


「ダンシング・ライダー」の作詞・作曲者は、
「月光仮面は誰でしょう」原曲を作詞した川内康範で、
原曲名は「山あり谷あり」だった
川内氏は、晩年に森進一の「おふくろさん」の件でニュースで騒がれたことでも、
記憶に新しいであろう
多くの演歌の作詞とともに、
「にっぽん昔ばなし」「死ね死ね団のテーマ」など、
子供向けのTV番組楽曲もしばしば作詞した
この時小室に提示された曲には「ジーパンはいた赤トンボ」もあったが、
これよりマシということで、小室は「山あり谷あり」を選んだ


しかし聞いてみると、「ダンシング・ライダー」も、それほど悪い曲ではない
ロック調のキーボードソロで始まるイントロ、洋楽っぽいサビを聞く限り、
むしろ「The Esther」の曲よりも出来が良いのではないか


ただAメロはやはりイマイチである(歌詞も曲も)
「ダンシング・ライダー」は小室がとにかくアレンジに苦労した曲で、
コードやメロディまで変えて、
イントロと間奏しか印象に残らないようにしたというが、
あるいは本来の「山あり谷あり」は、
出来のイマイチなAメロだけなのかもしれない
(この部分の歌詞に「山あり谷あり」と出てくる)

あてのない旅 山あり谷あり
傷つきながら 夢も見るだろう
道はとおい
Anytime Dreaming Makes Me Real
Anytime Dreaming Makes Me Real


サビの部分は「Anytimie〜」と、英語の歌詞になっているが、
当時60歳という年齢や、他の川内作品の歌詞から考えても、
川内氏のセンスとは思えない
この部分は小室が付け加えたのではないか


もしもAメロの部分だけが原曲だとしたら、
そこから「ダンシング・ライダー」全体を作り上げる小室の発想力には、
驚かざるを得ない
「Rockin' on the月光仮面」も、曲名と歌詞だけ聞くと失笑を禁じえないが、
オケは割とまともだ
小室は後にTMライブで、
原曲からは考えられないようなライブアレンジを次々と披露するが、
その才能はこんなところにも出ているのかもしれない(こじつけかもしれないが)


なお本作リリースの前後、2ndアルバム「Base Area」リリース以前、
SPEEDWAYはプラッシーの販促イベントなどでミニライブを行なっていた
その中には「Base Area」未収録曲もあり、
この頃試行錯誤しながら、多くのデモ曲を作っていたことが推測される


その中にはギズモの「The Ocean」を元にしたもの(曲名不明)や、
「Flay Away」を元にした「Fly Away Again」もあった
さらに「Base Area」に収録される「Michel」も、原曲はギズモ時代に作られていたという
ギズモ時代の遺産がこの頃にも受け継がれていたことが分かる


他の未発表曲として「Feel So Good」「Long Many Time Ago」がある
この内で後者はTM NETWORK時代の曲の一フレーズとして日の目を見ることになる
現在までTMの代表曲となっている「Seven Days War」である


ただし共通するのはサビの部分だけで、具体的には、
Seven Days War 戦うよ
僕たちの場所この手で(つかむまで)
Seven Dasy War Get Place to Live
ただ素直に生きるために

の部分が、
Long Long Long Many Time Ago
幼い頃の夢が
Long Long Long Many Time Ago
明日(あす)への奇跡を起こせ

になっている
また「Seven Days War」はバラードなのに対し、
「Long Many Time Ago」は派手なシンセとギターを交えたイントロで始まるという違いもある


なおこの時期の小室の仕事について、もう一つ挙げておきたい
ミス・オレンジショックという女性への曲提供である
「愛しのリナ」「ア・イ・タ・イTEL」の2曲で、シングルとして発売された
演奏はSPEEDWAYである


ミス・オレンジショックが何者なのか、自分は詳しいことは分からないが、
当時のミック・ロンソンのFC会長が企画モノとして出したものだったらしい
ミュージシャンにしては歌があまりうまくないが、
かといってアイドルにしては見た目が可愛いくない
(レコードジャケットの写真はSPEEDWAY公式サイトにあるが、結構なインパクト)


曲は1980年代初頭のいわゆるテクノ歌謡に分類されるものだが、
単なるテクノ歌謡に終らず、やはり小室節を感じることができる
ボーカルを度外視して聞けば、
オケは後の小室のアイドル提供曲の原型を見るようである
後の小室の仕事につながるTMメンバーとの関係と、
女性歌手への楽曲提供は、ともにこの頃から始まるのである

(2006/8/5執筆 2006/11/24・2008/9/8・2012/12/10・2016/10/6加筆)

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0-3 小室哲哉と音楽の出会い

2006/11/24 00:49
小室哲哉の音楽歴は長い
もっとも専門家の訓練を受けたのは、
子供の頃に習ったバイオリンとエレクトーンくらいで、
あとはピアノもキーボードも作曲も、すべて独学によるものである
だがむしろ独学だからこそ、独特な音楽センスが醸成されたともいえよう


小室といえばシンセという印象が強いし、
実際にシンセは小室の中で大きな位置を占めている
小室がシンセに興味を持つことになるきっかけは1970年大阪万博で、
冨田勲指揮のシンセパフォーマンスを見たことだったという
時に小学校6年生のことだった
シンセを手に入れたのは中3の時である(1973年頃)
家のエレクトーンを親に黙って売って(!)、
発売間もないRolandのSH-1000を手に入れたという


ちなみに小室の富田への憧れは今まで続いている
そのような中2011/8/19には、
「FREEDOMMUNE 0」でついに共演を果たすことになった
しかし折り悪く台風の接近のため、このイベントは流れてしまった
小室は同日の深夜にスタジオに移り、用意していた音源を使って、
生演奏の様子をネット配信した
小室はがこのイベントをどれほど楽しみにしていたか分かるだろう


結局小室の宿願は12/20〜24に開催された、
「HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE」の12/23公演で果たされた
前半では富田のインタビューと、
富田が「FREEDOMMUNE 0」用に作った音源を基にした「Planet Zero」を放送し、
その後に小室のライブ演奏が行なわれた
小室はTwitterでこのイベントに先立ち、
「僕にとっては遅すぎる、オーディションみたいなもの」と語っている


ライブ終了後、小室は富田と話す機会を得た
富田は小室の演奏を評して、
「すごいスピード感と生命力、それに哀愁がある」と評し、
小室も嬉しそうにしていた
また富田は、直前にクモ膜下出血で倒れた小室の妻KEIKOについて、
「苦労をかけたんじゃないですか?」と言いながら、
「でも若いからね、絶対大丈夫」と励ましの言葉を与えていた
苦労と栄光の時代を経て大きな没落を味わった後の50台半ば、
一つの宿願が果たされた瞬間だったといえるだろう


さて小室の場合、ウツ・木根のように、
当時日本で流行っていたフォークの影響はほとんどない
中1の頃にはフォークを聞いていたこともあったが、
中2の頃から洋楽マニアになったようだ


T-Rexの「The Slider」が、
小室が自分で買った最初のレコードだった
中学校時代に放送部に所属していた小室は、
様々な洋楽のロックミュージックに触れることができた


小室は父が早稲田大学出身ということもあり、
自らも高校の推薦入試で早稲田実業に入学した
小室は学校が新宿周辺だったこともあり、刺激的な毎日を送った
ロック喫茶やライブにもよく通ったらしい
David Bowieファンのいとこも良い話し相手だった
このいとこの件は「深層の美意識」で詳しく触れられている


この頃も小室の洋楽マニア度はあいかわらずで、
「ロック・ボトム」というミニコミ誌ではロックの評論などを書いていた
後に20代の頃にも音楽雑誌上で、
外国人ミュージシャンにインタビューなどを行なっている
こうした外国人ミュージシャンへの憧れの強さは、
プロデューサー期から現在に至る小室の一側面であり続けている


ロック少年としては、やはり初めはギターを志したようだ
中学3年の時の文化祭(1972年)では叔父からもらったエレキギターを持ってバンドとして出演し、
The Beatlesの「Hey Jude」から始め、
「心の旅」「Scarborough Fair」「Imagine」「Love」「翼をください」「20th Century Boy」を演奏したという
しかしギターはあまり上達しなかったようで、
高校の頃にはシンセをメインにするようになった


特に大きな影響を与えたのがプログレッシブ・ロックである
エレクトーンの先生からKeith Emersonのことを教えてもらい、
ELPの「Pictures at an Exhibition」を聞いてみたのが、
プログレとの最初の邂逅である
(KeithのバンドThe NiceのLPという説もある)
もっともこの時はまだ子供だったこともあり、
怖いという印象が強く、ちゃんと聞けなかったのだが、
その後改めて聞いてみたところ、感動したということである


プログレの影響は、現在に至る小室のライブパフォーマンスで、
容易に見て取ることができる
特にその影響が濃かったのは2000年頃で、
小室はTM NETWORKの「Major Turn-Round」でプログレを試みた
そのタイトルチューン「Major Turn-Round」の構成
「First Impression」「Second Impression」「Third Impression」)は、
明らかにELPの「Brain Salad Surgery」をモデルにしている


また「Kiss Japan Dancing Dyna-Mix」から、
「Rhythm Red Tour」の頃のライブビデオでは、
ライブ中に小室がキーボードに飛び乗ったりしているところを見ることができるが、
これは多分Keith Emersonのパフォーマンスをまねたものだろう
小室が非道な手段でシンセを買ったきっかけも、Keithに憧れたことだった
高校時代にはひたすらキースのプレイをまねていたという


ちなみに後にTMの「Self Control」に収録される「Here, There & Everywhere」は小室が中学校時代に作った曲であり、
渡辺美里「lovin' you」に入っている「そばにいるよ」は中3の頃(一説には高校時代)に作った曲である
小室は消費音楽の代名詞のようにいわれることがあるが、
(ほとんど言いがかりだが)
あれほどたくさんの曲を作っているにもかかわらず、
古い曲も結構大事にしている


1974年、小室は高校1年の時、
高校の仲間たちとロックバンドを結成した
ギター・ベース・ドラム・キーボードという編成だった
このバンドは歌よりは楽器の演奏がメインで、
歌は適当なメンバーが兼任するという状態だった


高校1年の時のバンドはあまり形にならなかった
高校時代の小室は文化祭のために色々なバンドを組むと言う状態で、
必ずしも固定的なメンバーで活動していたわけでもなかったらしい
他のバンドの助っ人として演奏することも多かった
高校の学園祭でELPの「Karn Evil 9」「Pictures at an Exhisibition」やT-Rexの曲を演奏したという話もある


バンドのメンバー名が判明するものとして、
高校の音楽仲間だった小泉洋・斎藤栄作とともに、
文化祭で演奏をしたという話が知られるが、
これもそうしたバンドの一つだっただろう
このバンドでの小室は、金髪のカツラを付けていたという
他に同じバンドかは不明だが、
志村明という人物とバンドを組んでいたこともある


小室は高校の文化祭で、
セブン・スターズというバンドを組んで出演したこともあった
これが小泉・斎藤と組んでいたバンドと同じものかは不明である
小室は「ディスコ・バンドみたいなバンド」と回想している
セブン・スターズは文化祭が終わった後にも、
食堂などで他のバンドとともにライブイベントを企画することがあり、
タバコのセブンスターを観客に投げると言うパフォーマンスを行なってた


小室はこの頃知り合いだった学習院高校女子部の学生を通じ、
業界に接触するようになった
音楽業界でのアルバイトもこの頃から始まる
小室は高校〜大学時代から、
プロの仕事を目の前で見る機会に恵まれていた
高校時代からディスコのバイトで演奏などもしていたというが、
このディスコとの接点が、
セブン・スターズの活動の前提になっているのだろう


1977年の2月頃、小室はイラプションというバンドを結成した
高校卒業の間際の頃である
当時の早稲田実業は、成績上位者のみが早稲田大学に進める仕組みだったが、
小室は父から、大学に進むことができなかったら音楽をやめるように言われていた
そこで小室は必要な成績を取って大学進学を決めるとともに、
真剣にバンド活動を始めることになったのである


当時都立の高校で有名だったギタリストと、他の2人の4人で組んだそのバンドは、
プログレをメインにしていた
小室曰く、地元では注目される存在だったという
小室の本格的な音楽活動はこの時からと言って良いだろう


小室によればイラプションはELPとYesを足したようなバンドで、
実際にオリジナル曲の他にELPやYesの楽曲も演奏していた
バンド名もELP「Tarkus」オープニング曲の「Eruption」から取ったものである
小室以外の3人はジャズ・フュージョン系の音楽を得意としており、
小室だけがポップの志向を持っていた


イラプションは1977年の春から夏にかけて、
ギタリストが綿密に立てた計画に沿って、
様々なコンテストに出場した
メインとなったのは神田商会主催の「A Rock」と、
YAMAHA主催の「East West」である


「East West」では決勝に進み、
バンドとしてはダメだったものの、
小室個人としてベストキーボードプレイヤー賞を獲得した
この時にはデビュー前のSouthern All Starsやシャネルズも参加しており、
桑田佳祐がベストボーカル賞を獲得したという


だが「East West '77」決勝大会(1977/8/27)の公式記録を見るに、
出場者に小室の名前はなく、
キーボードで受賞したのはSuper Dream Bemi Familyの稲田保雄である
他にも色々な点で、小室の発言と公式情報は食い違っている

・小室は優勝をサザン、準優勝はたぶんシャネルズとするが、実際はグランプリがたぬきブラザーズ、優秀グループに選ばれたのはリバーサイドとカシオペア
・小室は審査員を後藤次利とするが、公式ページの審査員12人に後藤はいない
・小室は会場を渋谷とするが、実際には中野サンプラザ


ただ小室が具体的な大会名や出場者名を挙げながら、
まったくの虚構を話すとも思えない
少なくともサザン・シャネルズが「East West '77」に出場したのは間違いない
推定であるが、おそらく小室が言っているのは、
全国大会決勝ではなく、地区大会の決勝で、
審査員や会場・受賞者が異なっているのはそのためではないか


これについて傍証になる情報を「East West '77」の公式記録から探してみるに、
サザンもシャネルズも東京B地区から出場している
東京B地区への出場者はヤマハ渋谷店とシブヤ楽器から出ており、
渋谷エリアの地区だったらしい


もしも渋谷エリアの東京B地区の地区大会決勝にイラプションが出たとすれば、
小室が会場を渋谷としていることとも整合する
また小室がたぬきブラザーズやカシオペアに言及しないことも、
地区大会で顔を合わせることが無かったせいと考えれば良い
(たぬきブラザーズは東京A地区、カシオペアは埼玉地区から出場)


イラプションは「East West '77」の会場で、
コロンビアのディレクターから声を掛けられたが、
別情報ではその場所がエピキュラスだったとされている
エピキュラスは当時渋谷にあったYAMAHAのイベント会場で、
現在はエレクトーンシティ渋谷となっている
YAMAHAの渋谷イベントが行なわれる会場として自然な場所であり、
ならばイラプションはエピキュラスの地区大会決勝に出場した可能性が高い
実は小室は1987年に、
「East West」で「ブロックくらいまで行って」と発言している
おそらく地区大会まで進んだが決勝には進めなかったのだろう


木根・ウツとの出会いもイラプションとして活動していた時期である
府中市民会館でフィルモア楽器主催のジョイントライブが開催され、
イラプションがフリースペースと一緒に出演する機会があった
この時小室は、フリースペースの楽屋まで来て、
木根にシンセを借りたという
後のTM NETWORKメンバー3人の、記念すべき最初の顔合わせである


この時小室の演奏を見ていた木根の印象は、
「ブロンドのヘアピースにシルバーの衣装で華麗な演奏を披露していた。歌詞はすべて英語だった」というものだった(「電気じかけの予言者たち」より)
演奏曲には小室がサイパンに行った時にビーチで作った曲などもあった
それをMCで聞いた木根はカチンと来たと、後に言っている
ウツは、「こいつとは友達になれないな」と思ったという
この時代の写真はたまにテレビでも出るが、
長髪を金色に染め、
ラメ入りの服にロンドンブーツという出で立ちで街を歩いていたという


なお木根はこの出来事があったのを1978年とも1979年とも言っている
だがバンちゃんさんによると(本記事コメント欄)、
1977/8/28に府中市民会館でイラプションのライブがあり、
後日楽器点で販売されたライブのテープによると、
以下の五曲を演奏したらしい

1.イラプション(インストルメンタル)
2.バリエーション オブ バ チャイコフスキー(インストルメンタル)
3.マイフェアレディ フロム サイパン リトルラブ
4.よく聞き取れない (ユダヤチュー て聞こえる)
5.エニータイム オーケー


この時、3曲目のMCで、
小室がサイパン旅行した時に作ったことを話したという
会場とMCの一致から見て、
小室と木根の初対面はこのライブの時かと思われる
ならば木根の言う年代は、勘違いの可能性が高いだろう
(なおバンちゃんさんの写真には「FUJICOLOR 77」とプリントがあるとのこと)
「East West '77」の件も併せ、
小室は本格的な音楽活動を始めた1977/2頃から半年程で、
なかなかの活躍ぶりを見せていたようである


さて、「East West '77」会場でコロンビアのディレクターから声をかけられたイラプションだったが、
そのうち話が変わって、小室にバンドを結成させてデビューさせるという話になった
ディレクターも小室のロックテイストのキーボードに興味を持っていたらしい
小室はそれほど見栄えのするパフォーマンスをしていたのだろう
だが結局この話は実現しなかったという


ただこの話では、少し省略されている部分があるようである
というのも、小室にバンドを結成させたのは、
直接にはコロンビアのディレクターではなく、
エプスタインミュージックという事務所の上野義美社長だったからである
もっとも両者はまったく別件ではなく、
コロンビアのディレクターから上野に話が通されたのか、
上野自身がコロンビアと関係を持っていたのかもしれない


上野が結成させたバンドはギズモ(GIZMO)といった
ギズモが初めてステージに現れたのは、
Bow Wow(Vow Wowの前身)「Rising Tour」の1977/10/30新宿厚生年金会館公演で前座としてだった
同年8/28にはイラプションとしての活動が確認できることを考えると、
ギズモは9〜10月の間に結成されたことになり、かなり急ピッチな結成だったと見られる
そもそも事務所主導で結成されたバンドだったため、
シナリオは早くから用意されていたのだろう


1977年12月頃発行の「Player」1978年1月号では、
Bow Wowの「弟バンド」としてギズモが紹介されているが、
そこではギズモが翌年アルバムデビューの予定であることや、
ボーカリストを入れるかもしれないことなどが書かれている
当時ギズモにはボーカルがいなかったようである


さらに同誌の1978年10月号では、
ギズモを「キーボードを主体としたバンド」と紹介し、
ボーカルを募集するとして、選考用のテープ郵送先も掲載している
小室のキーボードが売りとされていたことが分かるが、
この頃もボーカルが見つかっていなかったらしい
(以上、GAUZE氏提供資料)
1978年のギズモのアルバムデビューは9月になっても実現していなかったが、
その原因の一つにはボーカル問題があったと考えられる


さて、1978年1月号では、1977年末のメンバーが具体的に判明する
ギター柴田昭萱・キーボード小室・ドラム竹森正幸・ベース菅沼智彦という編成で、
それはイラプションのメンバーに大阪のギタリスト柴田を加えたハードロックバンドだったという
1977年10月Bow Wowの前座でライブを行なった時の編成だろう
(いつのものかは書いていないが、演奏中の4人の写真が掲載されている)
柴田昭萱は、柴田昭寛の誤植の可能性が高い
柴田昭寛は、後に内田裕也のバックバンドSQUAT(後のトルーマン・カポーティ ロックンロールバンド)でギターを務めることになる


ではドラムの竹森とベースの菅沼はイラプションのメンバーなのだろうか
その可能性は十分にあると思うが、確証はない
ただこの二人は1978年の年始から夏の間に変更になったようで、
10月号には小室・柴田の他、新岡直美という人物の写真が映っている
(雑誌に名前は書いていないが、新岡の知人より確認)
新岡はギズモでドラムを担当していた
また同じ頃、ベースは稲田知也が担当していたことが知られる
おそらく10月号が発行された9月以前に、
竹森・菅沼は新岡・稲田に交替していたのである


ここで思い浮かぶのは、
当初イラプションがスカウトされたが、途中で話が変わり、
小室にバンドを組ませる方向に変わったと言う小室の発言である
あるいは新岡・稲田へのメンバー変更は、
この事務所の方針転換を反映しているのかもしれない
(またはそもそも竹森・菅沼も事務所が選んだ人材だった可能性もある)


小室が所属したエプスタインミュージックは、
Bow Wowに関してもそうだが、所属バンドを結成するに当たって、
社長の上野の主導権が強かったようだ
たとえばギターについては、実は当初小泉洋が務めることになっていた
しかし事務所の判断で別のギターが入ることになり(おそらく柴田加入の件)、
小室はその件で小泉に謝ったという(小泉氏談)


要するに最終的にギズモには、
小室以外のイラプションのメンバーは残らなかった
ギズモの活動方針決定に当たり、
当初10代だった小室にはほとんど発言権がなかったと思われる


これと関連して見ておきたいのが、「Steady」1979年4月号である
(GAUZE氏提供資料)
その中にあるギャラクシーというバンドの解説を以下に引用しよう

木塚ジロー(Vo、G)、栗原正樹(B、Vo)、塩沢敏明(Kbd)、山田英司(Ds)。
元イディオットと元イラプションのメンバーが集まって、77年に結成されたバンド。


ギャラクシーはギター・ベース・キーボード・ドラムの編成だったが、
この中に旧イラプションのメンバーが含まれていたことが分かる


ギタリスト木塚ジローは木塚二郎として現在も音楽家として活動しているが、
1982年にはボストンのバークリー音楽院に留学している
小室によれば、小室を除くイラプションのメンバー3人は、
後にバークリーに留学したというので、木塚がそれに当たる可能性は高い
ベース栗原とドラム山田(またはその片方)も、イラプションのメンバーだったのかもしれない


注目されるのは、イディオット結成が1977年とされていることである
これはギズモが活動を始めた年でもある
おそらく1977年9〜10月にギズモが結成された時、
そこに入れなかったメンバーによって、新たなバンドが結成されたのだろう


ギズモの活動としては1978/11/28、
東横劇場のライブイベント「Blow Up vol.1」への出演がある
この第二部を務めたのが、銀星団(シルバースターズ)とギズモ&斉藤光浩だった
斉藤はBow Wowのギター・ボーカルである


「ギズモ&斉藤光浩」については「斉藤光浩とジョエル」名義とする資料もあるようだが、
「ロッキンf」のレポートには「ギズモ&斉藤光浩」と明記してある
(GAUZE氏提供資料)
当初予定されていたジョエルというバンドからギズモに出演者が変更されたのかもしれないし、
ギズモがジョエルと改名する計画があったのかもしれない
なお「Blow Up vol.1」でギズモが斉藤と共演したのは、
ボーカルがいなかったためとも考えられる


ギズモには「Down The Line」「The Ocean」「Fly Away」などという曲があった
この中で「Down The Line」の間奏では、
後のTMNの「Thrill Mad Natural」のドラムの部分と同じフレーズが用いられている
シンセとしてはRolandのRS-505を主に用いていたが、
ハモンドオルガンもかなり目立つ形で取り入れられている


さて、ギズモのデビューは1979年になっても実現せず、
デビューの話はうやむやになっていたものと思われるが、
そうした中で小室は個人としてはプロデビューを果たしていた
銀星団のメンバーとしてである


銀星団のメンバーの正体は現在まで公にはされていないが、
これがBow Wowメンバーの別活動だったことは当時から推測されていた
実際に活動を始めた1978年の時点では、
Bow Wowメンバーの人数と同じ4人編成だった
(先述の「Blow Up vol.1」の頃)


だが1979/11/25リリースの「銀星団」には、
ボーカル&ギター、ギター、ドラム、ベースの4人とキーボード「Digital "Cheap" Snake」がクレジットされている
当時のBow Wowはキーボードを含まないので、
「Digital "Cheap" Snake」はBow Wowメンバーではないと考えられる


これについて「音楽専科」1980年5月号を見ると、
来日したTOTOに対して小室が行ったインタビューに小室の略歴として、
「バウワウ、シルバースターズを始め数多くのセッションで大活躍中の小室クン」
と書かれてしまっている
つまり小室は銀星団に関わっていたらしい


さらに2015/12/17、twitter上で、
「銀星団っていう覆面バンドに参加していたって噂、ホントですか?」
と聞かれた時に小室は、
「山本恭司さんとともに、僕はキーボードでした」と答えてしまっている
(山本はBow Wowのボーカル&ギター)


「銀星団」のレコーディングは1979年6月から7月にかけて行われた
小室は1979年春以前に途中参加の形でメンバーになったのだろう
その背後には、ギズモのデビュー計画中止があったに違いない
ただし「Digital "Cheap" Snake」は、
1980/11/5リリースの2ndアルバム「SEE」には参加していない
小室はSPEEDWAY加入の前後に脱退したと思われる


「銀星団」では1曲目の「金銭偽体 YOU」など、
曲によっては小室のシンセがかなり目立つ形で使われている
また「警邏徳 LAUGHIN' COP」という曲は、
作曲が「Digital "Cheap" Snake」である
商品化されているものでは、最古の小室楽曲だろう
この曲では途中で詩を朗読する謎の演出があり、
このアルバムでも最大の異色作となっている


後に小室がエプスタインミュージックにいた頃のことを回想した時の発言によれば、
自分が本当にやりたかった音楽的趣向は脇に置いて、
仕事に直接つながるように、どんな曲でも演奏するようになったという
事務所に所属して音楽活動を始めるようになり、
個人的趣向に留まらず仕事をこなさなくてはならなくなったのだろう
これ自体はアマチュアとしてでなくプロとして活躍するために必要なことだろうが、
当時の小室には鬱屈した思いもあったようである


なお小室は20歳過ぎの頃(1979年前後)から、
まったく経験がなかったピアノを使うようになったという
仕事の都合上、やらざるをえなくなったのだろう


また小室はこの頃のこととして、
プロと言われる線は近くにあるが、
その先がやたらと長いと実感したとも言っている
ギズモが1年以上かけてもデビューを果たせず、
銀星団も正体を伏せた活動になったことで、
こうした感想を抱くことになったものと思われる


以上、1970年代の小室の活動を見てきた
大学生時代の小室の活動歴は、だいたい以下のようになるだろう
(1980年代については、別章で触れる)

・1977イラプション
・1978ギズモ
・1979銀星団
・1980SPEEDWAY
・1981STAY
・1983TM NETWORK



大学時代(1977〜82頃)の小室


(2006/8/5執筆 2006/11/24、2007/9/13、2008/9/8、2012/12/10、2016/10/14、2017/1/12加筆)

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0-2 SPEEDWAYデビュー & The Esther

2006/11/24 00:28
1979年、木根・ウツたちはSPEEDWAYとして、
東芝EMIからプロデビューを果たした
東芝の新人スカウトから声をかけられたことがきっかけだったという
バンド名の由来は、映画「スター誕生」に登場するバンドの名前だという


SPEEDWAYのメンバーは以下の通り
時代のせいもあり、全員カーリーヘアーの衝撃的な風貌である

キーボード: 木根尚登
ボーカル: 宇都宮隆
ギター: 岩野光邦
ベース: 樋口潔志
ドラム: 杉本ユウ
パーカッション: 荒井カツミ

満面笑顔の木根やら、にっこりウツやら



前章で触れた通り、この中で木根・ウツ・岩野・樋口の4人はフリースペース在籍も確認できる
全員か否かは不明だが、
フリースペースのメンバーを中心に結成されたバンドであることは間違いないだろう
立岡正樹によれば、プロデビューが決まった時点でフリースペースが改名したという


SPEEDWAYの名義について確実なところでは、
1979/2/18に荻窪ロフトでのライブで確認できるが、
遅くとも1978年終わりには、SPEEDWAYとして活動していたと思われる
音楽雑誌「ロッキンf」1979年2月号(1月中旬発売)には、
「第二回アマチュア・バンド・コンテスト」の2次審査の結果が発表されている
(GAUZE氏提供資料より)
デモテープによる審査により、
500余の応募の中から最終選考の対象として83グループを選抜したものだが
その83グループの中にSPEEDWAYが含まれている
二次審査が年末頃だったとすると、一時審査はそれ以前であり、
応募は1978年秋頃と見てよいと思う


4月号(3月発売)では最終選考の中間結果が発表されているが、
これによればSPEEDWAYの応募曲は「悲しきドール」「心がゆれて」「あれは夢」の3曲である
(GAUZE氏提供資料より)
「悲しきドール」「あれは夢」はフリースペースの曲であり、
この点でもSPEEDWAYはフリースペースを引き継いだバンドだったと考えられる


「Steady」1979年4月号では(3月発売か)、
すでにSPEEDWAYデビューの情報が発表されており、
4/20渋谷エピキュラスでのレコードデビュー記念コンサートも告知されている
この告知は「アマチュア・バンド・コンテスト」の中間発表と同じ頃であり、
つまりコンテストの結果発表前にはデビューが決まっていたと見られる
(GAUZE氏提供資料)
なお同誌ではSPEEDWAYを以下のように評している

ウェスト・エリア・ロック・シーンから久久に現れたメジャーを狙えるグループとして、今年最も期待されているグループ。
スピードウェイは、アメリカン・ポップスをベースに、日本語を大切にした都会っぽいサウンドが特長。スケールの大きい、セクシーなヴォーカリスト、宇都宮隆と、ハードで、スリリングなギタリスト、岩野光邦を中心に、メンバー全員がコーラスに参加し、ハッピーでセンセーショナルなステージを展開している。



ただ先に触れたように、
立岡はフリースペースのプロデビューが決まってSPEEDWAYに改名したと言っている
だとすると1978年後半にはすでにデビューが決まっていたことになるが、
SPEEDWAY名義でアマチュアコンテストに出演しているのはどういうことだろうか
あるいはプロデビューは決まっていたが、泊付けとして応募したのだろうか
(となれば、TMの「フレッシュサウンズコンテスト」と同様のパターンとなる)


また立岡はコンテストの優勝がデビューのきっかけだったとも述べている
これはフリースペース史上でよく触れられる「新星堂ROCKINN」のことだろうか
しかしこのイベントは1977年9月に開催されており、
もしもこれがデビューのきっかけだとすると、
実にデビューまで2年近くかかったことになる


立岡の証言には、SPEEDWAYデビューを1976/12とするなど、
時系列については怪しいものが多く、全面的には信用できない
ただフリースペースがSPEEDWAYの前身だったことが認めて良いだろう
その改名はこれまで見てきた資料より、
1977年秋から1978年秋の約1年の間のことと考えられる


当初SPEEDWAYのデビューシングルは1979年6月リリースと告知されていたが、
実際にリリースされたのは7/5のことである
シングル「Dream Away〜夢まで翔んで〜」が、記念すべきデビューとなった
(B面 「Weekend Life〜Hot Summer Week End〜」)、


なおSPEEDWAY公式サイト(現在消滅)には9/5リリースとあり、
木根は7/21シングルリリースと述べるなど、情報が錯綜しているが、
当時の雑誌で7/5に発売されていることが明記されているので、
これに拠るべきだろう
音楽出版Jun&Keiのサイトでも、1979/7/5の発売として登録されている


6月というシングルリリースの予定日を考えれば、
レコーディングは5月には始まっていたはずである
おそらく年度初めの4月に東芝EMIと契約した後、
まもなくレコーディングに入ったものか
その後の雑誌記事では、
6/12〜16に箱根のスタジオでレコーディングしていたことが書かれており、
この頃にもレコーディングは続いていたらしい


その後1979/10/5には、
1stアルバム「The Esther」がリリースされた
先行シングルも含め、収録曲10曲の作曲はすべて木根で、
作詞は半分が木根の友人青木高貴、半分が影山美樹という女性である
(影山さんについてはよくわからないので、ご存知の方は教えてください)
なお編曲は全曲SPEEDWAY名義となっている


木根は当時の失敗談を語る時、
ポスターを200枚しか刷ってもらえないという冷遇ぶりだったなどと述べているが、
音楽雑誌などでは紹介されており、ある程度の宣伝はされている
なおキャッチコピーは、
「あしたを摑えるなら早いほうがいいぜ。大物”スピードウェイ”炸裂発進!」である


「The Esther」の楽曲から見るに、
SPEEDWAYは当時の雑誌記事にもあるように、
アメリカンポップス的な雰囲気を目指していたようである
バンド名の由来から考えても、洋楽をモデルにしていた可能性は高い
アルバムジャケットの雰囲気を見ても、いかにも70年代洋楽である


しかし個人的な感想を言えば、全体から受ける印象は、むしろ歌謡曲である
洋楽的な要素を盛り込もうとはしているが、
特に「ミズ・ミラージュ」「彼方より〜A Long Distant Love〜」「ドア」などは、
歌謡曲そのものと言ってよい
TMの「アクシデント」「あの夏を忘れない」が歌謡曲的といわれたりするが、
このアルバムの歌謡曲度は、あんなものではない


もちろんそれ自体は、良いわけでも悪いわけでもない
(好みはあるだろうが)
むしろ木根が非歌謡曲的な雰囲気を目指して作ったと思われる、
「今夜はゲーム〜Midnight Game〜」「夢まで翔んで」などよりも、
よほど自然に聞けると思う
またウツボーカルでここまで日本的な歌謡曲を聞くことができるという点でも、
希少度は高く、ある意味で、ウツファン必携のアイテムかもしれない


このアルバムでもっとも度肝を抜かれるのは、
やはりシングルになった「夢まで翔んで」だろう
ダサダサのイントロに加え、くどいほど乱打される電子ドラムの「ぽこぽーん」、
しまいにはホイッスルまで入ってきて、初めて聞いた時には衝撃だった

Dream 夢の中までぇー  Trip 翔んでみるのさぁー
燃える思いのままにぃー た・め・ら・い・などー捨ててぇー
(ピーピッ ぽこぽーん)
夢まで翔んで〜 ウーメイキンラブ
夢まで翔んで〜 も・え・つ・きるのさっ ウー


ただ「夢まで翔んで」も、曲自体はそれほど悪いわけではない
むしろ問題なのは、「ぽこぽーん」に疑問も挟まないアレンジのセンスだろう
(メンバー自身のアレンジだが)
アルバム全体としても、悪いのは曲よりもアレンジという印象が強い
特に「Super Star, Good Morning」「Just Love Story」「神話〜The Mith〜」あたりは、
今アレンジし直せば、なかなかの曲になりそうだ 
(というか、「神話」はこのままでもイケル)


アレンジについても、1979年という時代を考えれば、
実は平均的なレベルなのかもしれない
ただもしもこのバンドがTMと関係なかったら、
今わざわざ聞くことはないだろうと思う
まあまあいい曲もあるけれど、
このグループじゃないと聞けないほど個性的なものではないし、
きめ細やかな、あるいは意表をつくアレンジが施されているわけでもない
(ぽこぽーんはある意味でインパクトがあるが)


つまり当時の水準から見れば許されるレベルだとしても、
出色の作品と評価することは難しいと思う
おそらくプロとして、
地元の顔馴染み以上にファンを広げることは難しかっただろう


付け加えれば、この時代のSPEEDWAYの曲はすべて木根の作曲であるが、
やはりバラードはいいものを書く
冗談ではなく、「神話」は木根バラ名曲選の最初を飾る曲と思う
自分にとっての木根は、やはりバラード作家なのかもしれない
ただ木根としては「彼方より」がお気に入りで、
なんとTMやソロも含め、今まででもっとも好きな曲だとのことである
SPEEDWAY以前(フリースペース時代?)から演奏されていたという


またウツのボーカルは、この時代から一定の水準に達している
フリースペース時代までの活動の中で、
ボーカリストとしての実力は確立していたようである


ウツも2008年のインタビューで、
SPEEDWAY時代のトーンと現在は近いと言っている
TM時代には意図的に変えようとしていたこともあったが、
SPEEDWAY時代や現在は、自然な声で歌っているとのことである

(2006/8/5執筆 2006/11/24、2008/9/8、2014/1/12、2016/10/3、2017/4/22加筆)
THE ESTHER
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2006-09-29
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0-1 木根・ウツと音楽の出会い

2006/11/24 00:07
今更いうまでもないが、TM NETWORKは3人のメンバーで構成されている


キーボード小室哲哉
TMのリーダーを務め、かつTMの楽曲の大部分の作曲・編曲を担当

ボーカル宇都宮隆
ライブでは歌だけではなく、魅力的なダンスも披露

ギター木根尚登
時にはキーボードも演奏、作曲も手がけ、
リニューアル前にはライブでパフォーマンスも担当した


世間でTMというと、小室哲哉の率いるユニットというイメージで語られがちである
もちろん小室はTM結成の発起人であり、リーダーであり、サウンドの要であり、
彼の存在なくしてTMはありえなかった
しかし同時に、小室だけでは決してTMはありえなかっただろう


中でも木根は、世間では3人中でもっとも地味なイメージを持たれているが、
後のTMにつながる人脈は、間違いなく彼を中心に形成された
TMの前身であるSPEEDWAYも、木根を中心に結成されたものであり、
前史を語る際においては、どうしても木根を中心に語り起こすことになる


木根は小学生の頃はグループサウンズに興味を持っており、
クラブも器学部に入っていたが(パートは大太鼓)、
本格的に音楽を始めたのは中学時代だった
中学2年の頃、兄が弾かなくなったフォークギターを引き取り、
学校の休み時間にフォークギターで仲間と曲作りに励む毎日だった
フォークやカレッジ・ポップスに影響されたところが大きかったと言う
後にはロックに関心を寄せた時期もあったが、
木根の心をもっともとらえた音楽がフォークだったことは、
後の彼の様々な言動からもうかがうことができる
ちなみに木根の好きなフォークシンガーベスト3は、
1位吉田拓郎、2位井上陽水、3位かぐや姫だという


木根が初めて作った曲は「枯れ果てた世界」で、
ギター雑誌に掲載されていた歌詞に自分で曲をつけたものである
木根は中2の時にこの曲をクラス対抗作曲コンクールで、中学校の体育館で演奏したという
他にも「風来坊」などという、いかにも当時のものと分かるタイトルの曲を作っていた


最初に組んだグループは、学校の音楽仲間の一人と組んだフォークデュオだったという
中2の頃に、同級生と二人で、おんざろっくというデュオを組んだというので、
おそらくこのことだろう
また中学3年の文化祭では、フリーダム&ピースというグループで出演したというが、
これはおんざろっくとは別のものだろうか
フリーダム&ピースは文化祭の時だけの一時的なグループだったのかもしれないし、
木根は複数のグループを掛け持ちしていたのかもしれない


同じ頃にはテレビ東京の「音楽の館」のオーディションを受けたが、
受付後にバンドのメンバーが脱走してしまい、木根も仕方なく帰宅したという
この頃の木根はサッカー部でも活動しており、
バレンタインデーには学校中の女子が木根に群がるほどの人気だった
ウツによれば、木根の人生で一番モテていたのはこの頃だったという


木根は高校に入ると、フォーク以外の音楽も聞くようになり、
またピアノも弾くようになった
最初に弾けるようになったのは、The Beatles「Let it be」だった
ただし高校になってもおんざろっくは継続しており、
フォークへの関心も相変わらず途切れていなかったようである


一方ウツこと宇都宮隆は、小学校時代から木根とクラスメートだった
木根がウツと出会ったのは、ウツが熊本から引っ越してきた時で、
小学校2年の時だったとも3年の時だったとも言う
(この点は木根の発言が一定していない)
ドッジボールがうまいやつという印象はあり、
一緒に映画を見に行ったこともあったというが、
当初はそれほど仲がよかったわけでもないらしい


若かりし日のウツ


2人の親しい付き合いは、高校時代にはじまる
きっかけは、ウツが音楽を始めたことだった
なおウツは大変マイペースな性格で(これは現在までそうだが)、
音楽を始めるまでは、意外にも学校であまり目立たない存在だったという


ウツは小学生の頃から歌手へのあこがれがあったが、
関心があったのは当時流行していたグループサウンズで、
特に6年生の頃にはザ・タイガースに夢中だったという
2016年には「T.UTU with The Band All Songs Collection」で、
1992年の未発表音源としてザ・タイガース「シーサイド・バウンド」(原曲1967年)のカバーが発表された
当時ウツがこの曲をカバーしようと思ったのは、タイガースへの愛着故だろう


後のウツにもっとも影響を与えたのはロックンロールだった
特にロッド・スチュアートへの憧れは、しばしば自ら語っている
後にバンドを始めた時(フリースペースの頃か)には、
ロッドが自分の声をつぶしたというエピソードを意識して、
夜の球場で声を張り上げ、声を強くするために声をつぶそうとしたという


しかしそんなウツも、音楽活動の始まりはやはり木根と同様にフォークだった
特に吉田拓郎や井上陽水にはまっていたらしい
1970年代前半とは、そのような時代だったのだろう
(リアルタイムでは知らないが)
ウツは中3時代にフォークギターを買い、
高校の頃にはバンドのボーカルを務めるようになった
人前で初めて歌ったのは井上陽水「西へ東へ」だった


木根に話を戻そう
木根は高校に入ってからも、おんざろっくを続けていた
中学時代の同級生だった青木高貴やその弟も加わったこともあった
しかし4人体制で開いたコンサートは人が全然入らず、
青木兄弟はおんざろっくを脱退することになった
青木は後にSPEEDWAYのプロデュースやTM NETWORKのマネージャーを手掛けた人物である


おんざろっくが2人体制に戻った後、
木根はウツが音楽を始めたことを聞き、ウツに加入を求めた
木根とウツによる音楽活動の始まりである
この前後からオリジナルメンバーだった中学時代の同級生はフェードアウトしたため、
以後おんざろっくは木根とウツのデュオ的なグループとなった
1974年、2人が17歳の時だったという


なお木根によれば、高校時代、ウツと組む以前(1973〜74)に、
「同級生とのデュオ」(おんざろっくのことだろう)の曲にピアノを入れるために、
女性メンバーを加えたらしい
だが木根も同級生もこの女性を気に入ってしまい、木根は短期間付き合ったという
憶測だが同級生が来なくなったのは、この件が関係しているのかもしれない


木根はこの女性からふられた夜、
作詞作曲「鬼寝名音」名義で「自業自得」という曲を作った
この曲は好評だったため、ウツとのデュオ時代にも演奏し、
オーディションでも演奏していたという
後に2010年、「木根本」にこの曲の譜面が出ており、貴重な資料である
(ただし年代を「1975頃」とするのはあまり信憑性がない)
この時代の作風が分かる好例なので、歌詞の一部を以下に挙げておこう

昨日はあんなことをいってしまったけど、
あれが本当の気持ちではないことは分かるだろう
心にないのでしょうか?
もう二人の愛のロウソクは燃え尽きてしまったのですか?



「Twilight Moon」に掲載されている2002/4/27「Utsu Kine Solo 10th Aniversary FC Event in 合歓」のライブレポートに拠ると、
おんざろっくには 「しぐれ坂」「終電車」「自業自得」「愛ちゃんの星」「サヨナラ五月」「花火の夜」「トマトジュース」
などという曲があったらしい
他に「雨の詩」「嫁ぐ日に」「卒業写真集」「つつじヶ丘三丁目」などの曲名も確認されているが、
高校生が「嫁ぐ日に」という曲を作るとは、なかなかすごいものである


この後のおんざろっくには、ベースやドラムも参加するようになったという
フォーク以外にロックの曲も演奏するようになったのかもしれない
ベースは樋口潔志、ドラムは荒井克己で、
ともに後にSPEEDWAYのメンバーとなる人物である
木根によれば、高校卒業と同時にバンドを解散し、新たなバンドを結成したというが、
「FANKS DYNA-MIX」パンフレットに拠る)
解散した「バンド」とはおんざろっくのこととも思われ、
ならばおんざろっくは最終的に、半ばロックバンドになっていた可能性も考えられよう


この頃の木根は、学校の音楽仲間の中心的存在だったらしい
なぜか木根の家は音楽に興味のある連中の溜まり場になり、
置き場のない楽器の置き場所になった
木根自身は大して楽器を買わなかったが、楽器には困らなかったという


木根は高校時代、ダンスパーティのDJをやったこともあるというが、
さらに高校卒業後の1976年頃、ソロコンサートをやったこともある
(高3の時という発言もあるが、シンセやハモンドに手を出すようになったのは高校卒業後らしいので、おそらくこのコンサートも卒業後だろう)
その時は20曲のオリジナル曲を演奏したが、
その中には20分を越すプログレの曲もあったという


木根はYesのリック・ウェイクマンを気取り、
ステージ上にキーボードを何台も並べていた
自らハモンドオルガンも購入したという
意外なことに、木根もプログレにはまった時期があったのである
この点は、後に小室との音楽的接点になったのかもしれない
ともかく高校卒業前後における木根の音楽的関心の広がりを知ることができる


木根やウツは高校卒業後も大学には進学せず、
しばらく音楽三昧の生活だったようである
そのような中で木根は1976年12月、
ウツや他の仲間とともにフリースペースというロックバンドを結成した
木根はリーダーで、キーボード担当だった
TMに詳しくない人が、木根がキーボードを弾くのを見ると驚いたりするが、
木根は本来キーボードプレイヤーで、
ギタリストになったのはTMになってからである
木根がエレキギターを弾けないのは、ある意味で仕方ないとも言える


メンバーとしてはウツ(ボーカル)・荒井(パーカッション)の他、
岩野光邦(ギター)が参加したことが確認できる
木根・ウツ・荒井・岩野の4人が、
後にSPEEDWAYのメンバーとしてデビューしたことを考えれば、
同じくSPEEDWAYの初期メンバーだった樋口潔志(ベース)と杉本ユウ(ドラム)も、
フリースペースのメンバーだった可能性は考えられる
ただしアマチュアバンド故、メンバーの出入も多かったと考えられ、
現在では知られないメンバーも存在した可能性は高い


フリースペースは機材の充実が売りで、
メンバーはバイト代を機材につぎ込む一方で、
これを他のバンドにレンタルして金を稼いでいたと言う
またボーカルのウツだけ何も買わないのはずるいということで、
PAを買わされたというひどいエピソードもある


フリースペースは八王子を中心に活動したが、
アマチュア時代からファンクラブも結成され、
地元ではかなりの人気者だったらしい
これは本人たちだけではなく、
当時別のバンドで活動していた小室もそう言っている
またステージでスモークを炊いていたのが、
小室としては印象的だったという


フリースペースは自らライブ活動を行なうだけでなく、
三鷹のフィルモア楽器店の社長との合同企画としてライブイベントを企画し、
出場バンドを募るなど、地元でも注目される存在だった
こうした企画の手配の実質的なところを裏方として取り仕切っていたのは、
フリースペースのマネージャー的な位置にいた青木高貴である


フリースペースはコンテストにも積極的に応募し、
1977/9の新星堂のイベント「新星堂ROCKINN」では、
「ライブ・ツアー」という曲で優勝したこともある
なおこの時に特別賞を取ったのが横浜銀蝿だったという


フリースペースは1978年には、
持ち歌の「あれは夢」「悲しきドール」などがラジオでオンエアされたらしく、
それなりに注目されていたようである
「悲しきドール」は、八王子音楽祭で作曲賞も取ったという
他に「キューティ・レディ」「ムーンライト・シンデレラ」「Please Say You Love Me」という曲もあった
このフリースペースの活動が基礎となって、
木根・ウツたちは1979年、SPEEDWAYとしてプロデビューを果たすことになる


なお木根の仲間で、いち早くプロデビューを決めた者がいた
ベーシストの阿部晴彦である
フリースペースのステージにも、ギターで参加したことがあった
仲間内でも卓越した技術の持ち主だったと言い、
1979年にイルカのバックバンドのファンシー・ハウスのベースとしてデビューした
同年には木根らもSPEEDWAYとしてプロデビューすることになるから、
だいたいこの頃が木根たちにとっての画期となったと言えよう


仲間内でも将来を嘱望された阿部だったが、
1980/5/18に、アレンジャーの木田高介とともに、
山梨県で自動車事故を起こし、帰らぬ人となった
一ヵ月後の6/29、日比谷野外音楽堂で二人の追悼コンサートが行なわれ、
木根・ウツ・小室を含むSPEEDWAYや、
阿部在籍のバンドのスクランブル・エッグも参加した
なおTM3代目マネージャーの井上哲生は、
このスクランブル・エッグのメンバーである


この時の追悼コンサートは、
かぐや姫、吉田拓郎、山本コウタロー、はしだのりひこ、小室等、上条恒彦、ザ・ナターシャセブン、倍賞千恵子、イルカなど、
そうそうたるメンバーとの競演であった
(どうでも良いことだが、同姓ということでよく並べられる小室等と小室哲哉は共演経験があったことになる)
他の出演者とのあまりの知名度の違いのため、木根たちは大変いづらかったという
なおかつてSPEEDWAYの公式サイトには、
その後で行なわれた府中の児童会館の阿部追悼ライブの写真があった
(現在はサイトごと消滅)


阿部はイラプション時代から小室と知り合いで、
1978年頃に小室哲哉に作詞を依頼したことがあった
阿部は木根たちの一つ年下で、小室と同年代である
当時特に作詞家として注目されていたわけでもなかった小室に作詞を依頼するというのは、興味深い
その曲名は「You Can Find」といい、
当時阿部のバンド(おそらくスクランブル・エッグ)によって実際に演奏されていた
小室はこれを渋谷屋根裏というライブハウスで当時見ていた


後に2008年、TM NETWORKのアルバム「SPEEDWAY」レコーディング時、
この時に小室が書いた詩が見つかった
これを元に新たにピアノインスト曲として制作された「You Can Find」は、
「SPEEDWAY」に収録されている

(2006/8/5執筆 2006/11/24、2008/9/8、2010/12/26、2012/11/27、2014/1/12、2016/10/3加筆)

SPEEDWAY
よしもとアール・アンド・シー
2007-12-05
TM NETWORK
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記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 23 / トラックバック 0 / コメント 11


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