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2006/11/24 01:38
1981年から1983年の間、木根・ウツはSPEEDWAY、
小室も自分のバンドをやりながら、作曲・演奏の仕事をこなしていた
特に小室の仕事に関しては、現在でもある程度追うことができる
この頃の小室のバンドは、小室哲哉&STAYと言った
バンド名から見て、小室がリーダーだったようである
橋本洋子という女性がボーカルを取った
フュージョン系のバンドで、ダンスサウンドを中心としていたようだ
The Beatlesの「Let it be」のダンスバージョンなどを演奏していたという
STAYには専属のギターはいなかったが、
北島健二がギターで参加したこともあったらしい
ファンには周知の通り、北島は後にFence of Defenseを結成する
またSTAYの少し後、1982年には、
香港のサミュエル・ホイ(許冠傑)のアルバム「難忘您・紙船」で、
小室と共にレコーディングに参加している
STAYに話を戻すと、
イラプションからSPEEDWAYまで一貫してロックを追及してきた小室だったが、
ここで一度別の方向に舵を変えたようだ
小室は後にダンスミュージックに積極的に取り組んだが、
(特に1986、1989、1991〜95、2001〜04)
この頃もそのような時期だったのだろう
それはおそらくTM NETWORKにもつながる動きと思う
polytopeさんの情報によると、
(本記事および「0-3 小室哲哉と音楽の出会い」コメント欄)
1981/6〜1982/1頃に渋谷のライブハウスで活動していたことが知られる
この頃の「ぴあ」の記事を以下に引用する
・1981/6/27 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/7/29 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/8/29 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/9/26 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/10/16SHAFT@渋谷屋根裏昼の部(SHAFT=真樹村サトシ(vo,g),小室哲哉(key),岡本英利(b),サミュエル岡本(ds))
・1981/10/17小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/12/28小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/1/17小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
興味深いのは最後のSPEEDWAYとのジョイントライブであろう
再結成したSPEEDWAYとの縁(というより木根との縁)は、
まだ続いていたわけである
この後、1982年1月以後は
少なくとも「ぴあ」では、
STAYの活動の様子はうかがえなくなる
この頃を最後に活動を休止したのだろう
なお小室は5年間早稲田大学に在籍したとされるが、
入学は1977/4だから、1982/4には除籍されたはずである
(そもそも通学していなかったが)
周囲から色々といわれることもあったようだが、
音楽業界の中に入ることについて、
この頃の小室はすでに決意していたであろう
小室はまた、音楽業界の様々な仕事も引き受けた
自らのバンドだけでなく、プロミュージシャンのサポートも行ない、
CM曲作りや演奏・インタビューなども行なった
現在知られるところでは、
たとえば白竜のバックバンドやレコーディングへの関与がある
(1981年リリースの「Asian」「光州City」など)
後に1999年、小室は白竜に「take a deep breath」を提供しており、
意外と長い関係である
1980/12/31・1981/12/31には白竜のサポートで、
内田裕也主催の「Asakusa New Year Rock Festival」にも出演している
安岡力也「ホタテのロックン・ロール」(1983年)もある
この曲は小室の編曲・演奏である
「おれたちひょうきん族」の企画からレコード化したもので、
原曲は「マンガジョッキー」というテレビ番組で使われた内田裕也作詞・歌の、
「マンジョキロックンロール」である

実はTKの演奏
この頃の小室は、内田や白竜など、
後には考えられないミュージシャンと関係している
後にギズモメンバーの柴田昭寛も内田裕也のバックバンドに入っているので、
おそらくはBow Wowの縁で内田の人脈とつながったのだろう
ついでに「ひょうきん族」関連でいえば、
桑田佳祐作曲「あみだばばあの唄」でもキーボードを演奏している
桑田・小室の組み合わせも、今では考えられない
またこれは時期がはっきりしないのだが、おそらく1980年代前半の頃、
(知っている人がいたら、教えてください)
小室は原田真二のバックバンドのクライシスで、サポートを務めていた
小室は正式加入のためにオーディションを受けたが、落選したという
ちなみにクライシスには1980年、北島健二が参加している
1982年頃は、デビュー当時の村田和人のサポートも行なっていた
TM NETWORK時代のサポートメンバーである阿部薫とはこの時に出会った
あのねのねや角松敏生のサポートもこの頃である
おそらく小室は他にも様々なミュージシャンと関わっていたはずで、
また自らのバンドも持っていたというから、非常に精力的である
小室と木根の関係も、依然として続いていた
木根はSPEEDWAY解散直後と思われる1981年4月頃には、
西条秀樹のバックバンドのポップンロールバンドに所属する一方で、
小室から作曲・演奏の仕事などをまわしてもらっていたという
小室と木根の共同の仕事としては、
Serica with DOGのアルバム作成がある
Sericaはボーカル芹川智一をリーダーとするバンドである
彼らは小室と知り合い、約一年をかけてデモテープを作成した
彼らのデビューはその半年後というが、
デビューは1983/9/21、アルバム「CAUTION」なので、
1982年半ば頃からデモテープ作成を始めたのだろう
このデモテープはTKブーム期の1997年、
「-DEMO-」として通販限定で販売された
ウツ・木根がコーラスで参加しており、
SPEEDWAY脱退後の小室と二人の関係を知ることができる
ちなみに「-DEMO-」にある「Anthem of Kids」「Anthem of Kids #2」は、
この頃小室がはまっていたTOTOの「Childs's Anthem」のオマージュだろうか
Serikaがロックバンドだったため、アルバム全体はギターの印象が強いが、
「-DEMO-」オープニングの「Welcome to Rock Land」などは、
小室のプログレ趣味とポップ性をまるごと反映したインストナンバーである
現存する小室インスト曲では「ACT 810」に次ぐ作品となるが、
「Rainbow Rainbow」期のTMにつながる要素を見出すことも難しくない
逆に言えば、デビュー当初のTM NETWORKの音は、
デビュー前の下積みの蓄積が前提となっていたということでもあろう
デビュー決定の頃には、
すでにミュージシャンとしておおよその完成に達していたともいえよう
Sericaは1983年には小室のプロデュースで、
アルバム「CAUTION」でデビューするが、
木根はこのアルバムでも楽曲を提供し、レコーディングにも参加している
Sericaは後に小室哲哉の執行猶予判決後の2009/6/18、
「CAN TRY AGAIN...to TK」をネット配信限定でリリースしている(作曲木根)
なお参考までに、「Arena 37℃」1984年5月号には、
小室が「プロデュース、作曲、アレンジ、スタジオ・ミュージシャン活動(パンタ、上田正樹、セーラ、遠藤京子、田村ケン、ラビ、サミエル・ホイ、セリカwith DOG、工藤順子等)をやっていた」と紹介されている
ただ自分には、名前を見てもよく分からない人がほとんどである
今触れたサミエルとセリカ以外では、工藤順子は、
1984/3/21リリースのデビューシングル「茜色のカーニヴァル」で
小室が演奏・アレンジを担当している
そんな中で小室が木根にもちかけた話があった
マイクというオーストラリア人をボーカルに、2人で作曲をするという形で、
グループを組もうというのだ
SPEEDWAY再結成とほぼ同時期というので、
1981年終わりから1982年初め頃のことであろう
(前章での考察に従い、SPEEDWAY再結成を1981年後半とする)
木根はこの話に乗り気で、 SPEEDWAYをやる傍ら、小室の計画にも関わり続けた
この頃作った曲が、
後に「Childhood's End」に収録される小室の名バラード「TIME」である
ウツがテープを聴いて気に入り、
TM NETWORKの曲としてアルバムに収録することに決まったものである
原曲の歌詞やアレンジは知るすべもないが、
「TIME」に関しては、ボーカルを聞かせる控えめなアレンジがすばらしい
特に好きなのは、サビの「That's The Darkest Night 愛せない」のところだ
しとやかな雰囲気から一転して、ここで一気に感情をほとばしらせる
他のTM曲には珍しい構成だが、1982年頃の作風だったのかもしれない
「TIME」は影の薄い曲だし、あまりライブでもやらないが、
1989年のリプロダクションシングルリリース時、
この曲も「Kiss You (Kiss Japan)」のカップリングとして入っており、
メンバーも気に入っていたのだと思う
(「Passes So Slowly」というバージョンで収録)
ウツは「Childhood's End」リリース時、一番好きな歌だったらしい
松本孝弘も、「Dragon The Festival Tour」で初めてTMのサポートを努めた時、
一番好きな曲だったという
しかしこの時の2人の計画は、結局実現しなかった
マイクのビザが切れてしまい、国外退去処分を受けてしまったからである
前後関係を見るに、1982年頃のことであろうか
この頃、小室は自分の曲をテープに入れて様々なところに配っていた
そんな中、EPIC/SONYの小坂洋二と親しくなる
1982年秋のことだった
小坂は後にTM NETWORKのプロデューサーとなる人物で、
当時佐野元春を売り出していた
しかし小室がこの頃作っていたのはシンセのインスト曲であった
小室は小坂に、これでは売り出せないと言われる
やはりボーカルは必要だった
そこで白羽の矢が立ったのがウツである
話をもちかけられたウツも含め、
3人で最初の話し合いが行なわれたのは1983年3月のことだった
ここから小室・木根・ウツの3人は、TM NETWORK結成に向かっていく
そのことは第一部(1983-85年)で述べることにして、
ここでは最後に、SPEEDWAYの最終的な解散について触れて、
序章を締めくくることにしよう
おそらく木根は、当初は小室の企画が形になるか確証もなかっただろうし、
可能性の一つとして考えていたに過ぎないのだろう
しかしそれが次第に形になってきて、
しかもバンドの要であるボーカルを引き抜くというところまで話が及ぶと、
木根はSPEEDWAYと新ユニットの、
どちらを取るかという選択を迫られることになったはずである
実際に木根はこのことについて悩んだことを本の中で書いている
小室が悩む木根の決心を促したことについて、エピソードがある
小室がSPEEDWAYのライブ会場まで録音機を持って来て、
まだ木根から話を聞いていなかったメンバーの前で、
今日が最後のライブになるから録音しようと言ってのけたという
若き日の小室の行動力には、驚くばかりである
最終的には、木根とウツはSPEEDWAYを去り(当然事実上の解散)、
TMを選ぶことになった
ある段階まではSPEEDWAY復活の可能性も考えたかもしれないが、
デビューが確実になった1983年8月で、解散は決定的となった
しかしこの点についても、SPEEDWAYの公式サイトは沈黙し、
「1982年解散」(ここでも年代をずらしている)と記すのみである
(2006/8/5執筆 2006/11/24・2008/9/8・2009/9/8加筆)
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