0-7 小室・木根・ウツその後

1981年から1983年の間、木根・ウツはSPEEDWAY、
小室も自らの音楽活動を行ないながら、作曲・演奏の仕事をこなしていた
特に小室の仕事に関しては、現在でもある程度追うことができる


この頃小室が率いていたグループは、小室哲哉&STAYと言った
1980年末から活動を始めたらしい
グループ名はJackson Browneの曲名「STAY」に由来し、
結成当初はライブの締めも「STAY」だったという


小室以外のメンバーは、ベースの玉井健之(たまいたけし、キンゾー)を除くと、
レコーディング・ライブごとにかなり流動的で、
固定したメンバーによるバンドというよりは、
小室を中心としたセッションユニットと言った方が良さそうである
参加メンバーには、別に自分のバンドを持っている者も多かった


固定メンバーに基づかない活動形態は、
友人関係に基づく大所帯のバンドだったSPEEDWAYのアンチテーゼでもあったが、
後述の小室・木根によるマイクのプロデュースにもつながるものだろう
そしておそらくこの形態は、
必要に応じてバックバンドを集めることを想定したTM NETWORKの前提となっており、
その点でSTAYの活動はTM前史として重要な位置にあるものといえる


ギターは小泉洋や北島健二が担当したこともある
小泉は以前述べたように、高校時代以来の小室の友人であり、
当初はギズモにも参加予定だった
小泉はTM NETWORKデビュー当初、マニピュレータ担当だったが、
実はもともとギタリストだった


小泉は早稲田実業に中学校時代から在籍していたが、
高校から同学校に入学した小室哲哉を入学式の日に見かけ、
何かありそうだと思い気になって、その日の内に声をかけて家に遊びにいった
この時小室は、サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにお願い」を演奏したという
これ以来小泉と小室は、高校でいつも音楽について語り合う仲間となった


北島は周知の通り、後にFence of Defenseを結成する
高校時代から凄腕のギタリストとして、地元では有名人だったという
またSTAYの少し後、1982年には、
香港のサミュエル・ホイ(許冠傑)のアルバム「難忘您・紙船」で、
小室と共にレコーディングに参加している
これは小室が北島に持ってきた話だったらしい


SPEEDWAYからも、ドラムのハタケン、パーカッションの荒井カツミが参加したことがあった
末期にはパーカッションとして水村某、
ギターとして高野浩史、ドラムとして市田雅也が参加したことが知られる
ボーカルとしては橋本洋子や吉川智子が確認されている
橋本は1986年に竹田和夫とBOYS ON ROCKSを結成し、後に結婚した
吉川は1985年にアマゾンズを結成して現在に至っている


イラプションからSPEEDWAYまで一貫してロックを追及してきた小室だったが、
STAYの楽曲はダンスミュージックを意識したものやポップス的なものが多かった
特に「On The Radio」はダンスを意識した曲だった
ドラム・ベースを中心としたリズミカルなオケ、
洋楽を意識したキャッチーな英語のみの詞などが特徴的である


STAYの楽曲はインストも多く、
その中でも「Disney Land」「Empire」はライブの定番だった
「眠りについた街」など小室がボーカルを取る曲や、
「Funky Fallin'」など小室がラップを披露する曲もあった


他に現在STAYで確認されている曲名としては、
「Love is Dance」「All Summer Days」「Twinkle Star」「Lady's Smile」「Air Plane」「Blue Bird」「Rain's Fallin'」「All the Way to Love」「Past and Future」「Listen to the Music」
などがある
すでにアルバム1枚分以上の曲が存在していた


他に洋楽のカバーやディスコメドレーなどもライブで演奏された
The Beatlesの「Let it be」のダンスバージョンもあり、
後のTMのようにライブ用のダンスミックスも行なわれていたことが分かる
ライブではSPEEDWAYの「Smile Again」を、
小室がピアノ弾き語りで披露することもあったという


インストが多かったこととも関わるだろうが、長い前奏や間奏を伴う楽曲も多い
これは後のTM NETWORKにもつながる要素だろう
あるいは小室のルーツであるプログレの影響を読み取っても良いかもしれない


個別の曲について注目すると、
「Disney Land」は、後に渡辺美里に提供する「そばにいるよ」の原曲である
また「Past and Future」のフレーズは、
後にスローテンポになって、
TM NETWORK「Rainbow Rainbow」の間奏に使われた


1987年の小室の発言によれば、この頃作っていたデモテープは30曲くらいあり、
その内10曲くらいは渡辺美里やTMの曲として世に出したという
「I Wish」「きみに会えて」「嵐が丘」「Believe」など、後に美里に提供した曲の原曲は、
この頃のデモテープに入っていたと、「深層の美意識」に記されている


また後述の「Sweet Song 2001」「TIME」の他、
「金曜日のライオン」の原曲もこの頃からあったし、
「Here, There & Everywhere」も中学生時代に作った曲というので、
この頃のデモテープにもあった可能性がある
他にも現在知られている曲でこの頃作られていたものは、何曲か存在するのだろう


polytopeさんの情報によると、
(本記事および「0-3 小室哲哉と音楽の出会い」コメント欄
1981/6~1982/1頃に渋谷のライブハウスで活動していたことが知られる
この頃の「ぴあ」の記事を以下に引用する

・1981/6/27 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/7/29 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/8/29 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/9/26 小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/10/16SHAFT@渋谷屋根裏昼の部(SHAFT=真樹村サトシ(vo,g),小室哲哉(key),岡本英利(b),サミュエル岡本(ds))
・1981/10/17小室哲哉&STAY@渋谷屋根裏昼の部
・1981/12/28小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/1/17小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部


以上のライブ会場はすべて渋谷屋根裏となっているが、
他の会場のライブは記録に残っていないだけかもしれない
TM NETWORKの「1974」の原曲の「Sweet Song 2001」は、
小室によればSPEEDWAY時代の曲で、渋谷屋根裏で演奏したこともあるとのことだが、
木根が「1974」に触れる際もこのことにまったく言及していないことを見るに、
木根がいたSPEEDWAYのライブで演奏していたのかは疑問もある
実際にはSTAYの曲として、演奏されていた可能性が高いだろう


上記で興味深いのは最後のSPEEDWAYとのジョイントライブである
再結成したSPEEDWAYとの縁(というより木根との縁)は、
まだ続いていたわけである
なおこの頃、ギターの岩野光邦とドラムのハタ☆ケンは、
STAYとSPEEDWAY双方を掛け持ちしていた


この後、1982年1月以後は
少なくとも「ぴあ」では、
STAYの活動の様子はうかがえなくなる
7月21日には新宿LOFTで「STAY Club Party」が開催されており、
その後もライブを行なう予定だったが、
結局これ以後ライブは行なわれなかった


この前後、小室は自らの人生について思い悩むことがあったらしい
globe「Faces Places」には、
小室の人生の転機となった年代として、
1970・1981・1984・1994・1997年が挙げられている
この中で「Faces Places」リリース年の1997年を除くと、
1984・1994年がTM NETWORKのデビューと「終了」であることは明らかで、
1970年は小室がしばしば触れる大阪万博の年である
(この時に見た富田勲のシンセプレーが小室の音楽の原点)


残る1981年については諸説あるのだが、
小室は2012年のTweetで、
「初めて音楽で食べて行くのを止めようかなと思った年。その時のおばあちゃんは僕に手を差し伸べてくれたんだよ」
と述べている
1981年、小室は音楽家になることを諦めかけたというが、
逆に言えば、音楽家人生をこの年に改めて決意したのだろう
SPEEDWAY解散後、STAYで新しい可能性を求めたということかもしれない


なお小室は5年間早稲田大学に在籍したとされるが、
5年目まで大学にいたと解釈すれば、
1977/4入学の後、1981/4以後1982/3以前に除籍されたはずである
(そもそも通学していなかったが)
周囲から色々といわれることもあったらしい
上記Tweetは、大学を出てからも音楽を続けることを決意したことを意味している可能性もある
なお小室は大学の退学届を提出する時、木根についてきてもらったという
この頃から小室のお守り役的な存在だった木根の立ち位置が分かる


この頃の小室は音楽業界の様々な仕事も引き受けた
自らのバンドだけでなく、プロミュージシャンのサポートも行ない、
CM曲作りや演奏・インタビューなども行なった
この頃の小室はYMOはマニピュレーターの松武秀樹と仕事したこともあり、
それによって今後の活路がすごく見えるようになった
またこれによって、YMOのようなトリオを意識するようになったともいう


小室が関わった仕事として知られるところでは、
たとえば白竜のバックバンドやレコーディングへの関与がある
(1981年リリースの「Asian」「光州City」など)
後に1999年、小室は白竜に「take a deep breath」を提供しており、
意外と長い関係である


1980/7/29新宿ロフトのライブで白竜のサポートを務めていたことが確認できる他、
1980/12/311981/12/31にも白竜のサポートとして、
内田裕也主催の「Asakusa New Year Rock Festival」にも出演している
この頃はSPEEDWAY・STAYを掛け持ちしていた上に、
他のプロミュージシャンのサポートとしての活動も行なっていたわけである


なおそれほど長く活動しなかったと思われるが、
小室は白竜サポート時にギターを務めた真樹村サトシとSHAFTを結成し、
1981年にライブを行なっている(上掲「ぴあ」の記事)


同時期の小室の仕事には、安岡力也「ホタテのロックン・ロール」(1983年)もある
この曲は小室の編曲・演奏である
「おれたちひょうきん族」の企画からレコード化したもので、
原曲は「マンガジョッキー」というテレビ番組で使われた内田裕也作詞・歌の「マンジョキロックンロール」である


実はTKの演奏



この頃の小室は、内田や白竜など、
後には考えられないミュージシャンと関係している
後にギズモメンバーの柴田昭寛も内田裕也のバックバンドに入っているので、
おそらくはBow Wowの縁で内田の人脈とつながったのだろう


またより早い例では、
1980年、原田真二&クライシスの「SHINJI STAGE WAY '80」日比谷野外音楽堂公演で、
メンバー(キーボードの豊田貴志?)の都合が付かなくなったため、
一度だけエキストラでサポートを務めたこともある
この公演は木根も見に行ったという
(本記事クララさんコメントによる)
後に小室は正式加入のためにオーディションを受けたが落選した
ちなみに1980年のクライシスには、北島健二もレコーディングで参加していた


1982~83年頃の小室は、デビュー当時の村田和人のサポートも行なっており、
TM NETWORK時代のサポートメンバーである阿部薫とはこの時に出会った
あのねのねや角松敏生のサポートもこの頃である
おそらく小室は他にも様々なミュージシャンと関わっていたはずで、
さらにSTAYとしての活動も行なっていたのだから、非常に精力的である


小室と木根の関係も依然として続いており、
木根は小室から作曲・演奏の仕事などをまわしてもらっていたという
2005年にリリースされた木根ソロシングル「My Best Friend」も、
この頃に作った曲である
木根がソロミュージシャンとして売り込むために作った曲で、
歌詞はまったく変わっているが、作曲は木根、編曲は小室だったと、
木根が後に語っている


そんな中で小室が木根にもちかけた話があった
マイクというオーストラリア人をボーカルとして、
2人で作曲をする形でグループを組もうというのだ
マイクは英語しか話せなかったが、
外見と声は良かったと言う
この話はSPEEDWAY再結成とほぼ同時期というので、
1981年終わりから1982年初め頃のことであろう
(前章での考察に従い、SPEEDWAY再結成を1981年末とする)
木根はこの話に乗り気で、 SPEEDWAYをやる傍ら、小室の計画にも関わった


この時の小室の構想は、曲は木根と2人で作り、
演奏はその都度うまい奏者に頼むというものだった
この発想は明らかに、
当時小室が手掛けていたSTAYの延長上にあるものであり、
同時に、後のTM NETWORKにつながるものといえる


この頃作った曲が、
後に「Childhood's End」に収録される小室の名バラード「TIME」である
原曲の歌詞やアレンジは知るすべもないが、 歌詞は英語だったという
後にウツがテープを聴いて気に入り、
TM NETWORKの曲としてアルバムに収録することに決まった


TM版「TIME」は、ボーカルを聞かせる控えめなアレンジがすばらしい
特に好きなのは、サビの「That's The Darkest Night 愛せない」のところだ
しとやかな雰囲気から一転して、ここで一気に感情をほとばしらせる
他のTM曲には珍しい構成だが、1982年頃の作風だったのかもしれない


「TIME」は影の薄い曲だし、あまりライブでもやらないが、
1989年のリプロダクションシングルリリース時、
この曲も「Kiss You (Kiss Japan)」のカップリングとして入っており、
メンバーも気に入っていたのだと思う
「Passes So Slowly」というバージョンで収録)
ウツは「Childhood's End」リリース時、一番好きな歌だったらしい
松本孝弘も、「Dragon The Festival Tour」で初めてTMのサポートを努めた時、
一番好きな曲だったという


しかしこの時の2人の計画は、結局実現しなかった
マイクのビザが切れてしまい、
国外退去処分を受けてしまったのである
1982年夏にはすでにいなくなっていたというから、
この話はごく短期(1981年末~1982年春頃)で終わったのだろう


それと入れ替わりで始まった話が、Serika with DOGのプロデュースである
Serikaはボーカル芹川智一をリーダーとするバンドである
芹川はエンジェルというバンドを解散した後に新たなバンドを結成したが、
その頃に小室と知り合い、約一年をかけてデモテープを制作した


彼らのデビューはその半年後というが、
デビューは1983/9/21、アルバム「CAUTION」なので、
1982年前半頃から1983年前半頃にかけて、
デモテープ制作が行なわれたのだろう


このデモテープはTKブーム期の1997年、
「-DEMO-」として通販限定で販売された
ウツ・木根がコーラスで参加しており、
SPEEDWAY脱退後の小室と二人の関係を知ることができる
ちなみに「-DEMO-」にある「Anthem of Kids」「Anthem of Kids #2」は、
この頃小室がはまっていたTOTOの「Childs's Anthem」のオマージュだろうか


Serikaはロックバンドだったため、アルバム全体はギターの印象が強いが、
「-DEMO-」オープニングの「Welcome to Rock Land」などは、
小室のプログレ趣味とポップ性をまるごと反映したインストナンバーである
現存する小室インスト曲では「ACT 810」に次ぐ作品となるが、
「Rainbow Rainbow」期のTMにつながる要素を見出すことも難しくない
逆に言えば、デビュー当初のTM NETWORKの音は、
デビュー前の下積みの蓄積が前提となっていたということでもあろう
デビュー決定の頃には、
すでにミュージシャンとしておおよその完成に達していたともいえよう


Serikaは1983年には小室のプロデュースで、
アルバム「CAUTION」でデビューするが、
木根はこのアルバムでも楽曲を提供し、レコーディングにも参加している
Serikaは後に小室哲哉の執行猶予判決後の2009/6/18、
「CAN TRY AGAIN...to TK」をネット配信限定でリリースしている(作曲木根)


参考までに、「Arena 37℃」1984年5月号には、
小室が「プロデュース、作曲、アレンジ、スタジオ・ミュージシャン活動(パンタ、上田正樹、セーラ、遠藤京子、田村ケン、ラビ、サミエル・ホイ、セリカwith DOG、工藤順子等)をやっていた」と紹介されている
この中ですでに触れたサミエルとSerika以外では、
工藤順子の1984/3/21リリースのデビューアルバム「茜色のカーニヴァル」に収録される「夕顔姐さん」で、
小室が編曲・演奏を担当している


以上のように、1982年の小室は木根とともに、
歌手やバンドのプロデュースを目指すようになっていたが、
それとともにSTAYの活動も続け、自らのデビューも模索していた
結果論でいえば、この二つの方向性が交わったところに成立したのが、
小室と木根で曲を作りウツに歌わせるTM NETWORKだったといえるが、
この結論は小室が当初から想定していたものではない


小室はプロデュース業の布石およびSTAYの活動を続ける一方で、
自分の曲をテープに入れて様々なところに配っていた
そんな中、EPIC/SONYの小坂洋二と親しくなる
1982年秋のことだった
小坂は後にTM NETWORKのプロデューサーとなる人物で、
当時佐野元春を売り出していた


しかし小室がこの頃主に作っていたのはシンセのインスト曲だった
インストを中心として曲によってはゲストボーカルも迎えるという、
高中正義タイプのスタイルを目指していたもので、
STAYの延長上の音だったと見られる
小坂に聞かせた一曲と思われるのが「Groove Gear 1」収録の「Introduction」で、
小室の仮ボーカルが入っているが、このまま商品化するのは難しかっただろう


小坂は小室に、これでは売り出せないと言われる
しかるべきボーカルが必要だということだった
おそらくこれを機に、小室はSTAYの延長線上でのデビューを諦め、
固定したボーカルを加えたグループの結成を目指すことになる
そこで白羽の矢が立ったのがウツだった


話をもちかけられたウツも含め、
3人で最初の話し合いが行なわれたのは1983年3月のことだった
ただしSPEEDWAYでのデビューを考えていた木根とウツは、
小室の提案にすぐには乗らなかったという
1982年秋からタイムラグがあるのは、そのためであろう
木根によれば、半年ほど悩んでいたといい、
「半年」という期間がどの程度正確なものかは分からないが、
数ヶ月間回答を保留していたのだろう


こうして小室・木根・ウツの3人は、TM NETWORK結成に向かっていく
そのことは第一部(1983-85年)で述べることにして、
ここでは最後に、SPEEDWAYの最終的な解散について触れて、
序章を締めくくることにしよう


小室から3人だけでのデビューを提案されたことで、
木根はSPEEDWAYか小室の新ユニットか、
どちらを採るかという選択を迫られることになった
小室の新ユニットがウツをボーカルとして迎えることになれば、
SPEEDWAYは事実上の解散とならざるを得ない
木根はこのことについて悩んだことを自著の中で書いている


小室が悩む木根の決心を促したことについて、エピソードがある
小室がSPEEDWAYのライブ会場まで録音機を持って来て、
まだ木根から話を聞いていなかったメンバーの前で、
今日が最後のライブになるから録音しようと言ってのけたという
若き日の小室の行動力には、驚くばかりである


最終的に木根とウツは1983年、
SPEEDWAYを去ってTMを選ぶことになった
ある段階まではSPEEDWAY復活の可能性も考えたかもしれないが、
デビューが確実になった1983年8月で、解散は決定的となった
だがSPEEDWAYの公式サイトは「1982年解散」としている

(2006/8/5執筆 2006/11/24・2008/9/8・2009/9/8・2012/12/10・2016/10/6・2017/1/12加筆)

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この記事へのコメント

polytope
2008年11月12日 02:40
こんにちは。その後『ぴあ』で1982年のライブデータも少し見てみました。とりあえず9月までです(続きはまた時間がある時に)。

1982
01-17 小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
02-21 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
03-07 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
04-10 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
05-08 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
06-26 HELLO、WEEKIDS、SPEEDWAY@原宿クロコダイル
06-27 SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
07-25 サウスウェル、SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
07-26 SPEED WAY@原宿サンビスタ
09-11 坂本めぐみ、SPEED WAY@原宿クロコダイル
09-16 SPEED WAY、IKUMI BAND@立川38 avenue

『ぴあ』に載らないくらいマイナーな場所でやっていた可能性もなくはないですが、素直に見れば81年6月から半年ほどの活動だったようですね。
蒼い惑星の愚か者
2008年11月12日 03:59
追加情報ありがとうございます!
今度は再結成期SPEEDWAYの情報が出てきましたね
公式サイトの情報と重なるところも多く、大変貴重な情報ですね
この頃の活動って、分かるものなんですねぇ…
記事本文も更新しておきます(0-6と0-7)
許冠傑
2011年09月21日 09:57

サミュエル・ホイは、香港では「歌神」と呼ばれる、今日の香港歌謡界を作り上げた別格中の別格の存在です。

日本で喩えるなら、美空ひばりの様な雲の上の存在です。

それをただ、香港の俳優歌手呼ばわりとは、幾ら国が違っていても知識が無いにも程があり、認識の無さと非常識さに呆れかえります。

はっきり言って、あなた方とは比べ様もないランクの存在です。

日本であなた方を、「歌神」だとか日本歌謡界の祖だとか言う様に形容や比喩をしているのは、一度も聞いた事も有りませんから。

実際、全く違いますし。

少なくとも、ご自分がなさった仕事に関してぐらいは知識認識を持っているのは、プロとして最低限当たり前の事ではないでしょうか?
青い惑星の愚か者
2011年09月21日 22:56
本記事でご不快な思いをされたようで、お詫び申し上げます
おっしゃる通り、私はサミュエル・ホイについてまったく知識はございません
某情報ソースで俳優として紹介されていたため、そのように書いたのですが、香港では有名な歌手のようですね
「俳優」という表記は改めておきます

本記事のArena 37℃のところでも書いていますが、私は世代の問題もあり、80年代前半の音楽をリアルタイムで聞いたことはありません
その点でこの時代を知る方には違和感を覚える記事もあるだろうと思います
この点は私も自覚しており、随時記事の訂正を読者の方々にお願いしているところです

ただ一点、誤解があるように感じたので、その点だけ申し上げます
コメントを拝見するに、TM NETWORKを「あなた方」と表現されており、私がTM NETWORKのメンバーかスタッフ、あるいはその関係者と考えられているように感じました
しかし私はただのTM NETWORKの一般ファンに過ぎず、このブログもTMの過去をファンの立場からまとめてみようとしているもので、TMメンバーやスタッフの見解とは何の関係もありません
その点だけは誤解なきよう、お願い致します
クララ
2015年04月29日 22:59
はじめまして。今こちらのブログを過去から現代に向けて読ませていただいている者です。今になって宇都宮さんの魅力に取り付かれ、TMに夢中にならなかった当時を悔やんでいます。
罪滅ぼしに(笑)、私の王子様だった真二くんについてお伝えします^^;

これも偶然、ウツファンのサイトで見つけたものですが、こちらを読んでみて下さい。
http://scarletmaypaleblue.blog61.fc2.com/blog-entry-279.html

ここで木根さんが直々に証言されてます。真二くんのライブ経歴を見ると、1980年 5月〜SHINJI STAGE WAY '80 ※5月10日/9月28日‐日比谷野外音楽堂

とありますので、'80年の5月か9月、どちらかかと思われます。

たったこれだけで申し訳ないですが、ご参考までに。
これからもちょくちょくお邪魔させていただきますね。
今後ともよろしくお願いいたします。
青い惑星の愚か者
2015年05月02日 01:28
おお! 原田真二さんのファンの方ですか!
ファンは真二くんて言うんですね
誰かと思いました(笑
タイムトラベラー、名曲ですよね

さて、貴重な情報をありがとうございました
小室さんのサポートは1980年で確定しそうですね
独力では調べが付かなかったので、助かりました
サポートとはいえ、一回だけだったのですね

しかし1980年となると、小室さんは北島さんと一緒にサポートやっていた可能性が高い?
青い惑星の愚か者
2015年05月02日 01:41
今調べてみたら、wikipediaの原田真二&クライシスの項目に、

「小室哲哉は、クライシス結成前後の1980年9月に行われた日比谷野外音楽堂のライヴに北島の紹介で急遽キーボードとして参加。その後正式にメンバー加入を目指しオーディションを受けたが採用には至らなかった。」

とありますね。
となると9月28日になるのでしょうか。
北島さんの紹介とするなど、木根さんのお話とは別の情報ソースがあるようですね。
何が根拠なんだろう…
クララ
2015年05月04日 17:20
ホント、「真二くん」なんて、まるで知り合いみたいですね(^o^;)
木根さんがファンで一緒にライブまでしてたなんて、あの記事は感動でした。きちんとクライシスまで調べてからコメントすればよかったですね。失礼しました。でも微力ながらお役に立てて良かったです。
こちらのサイトはようやくキャロルまで来ました(笑)。毎日楽しませていただいてます。感謝を込めて。
青い惑星の愚か者
2015年05月08日 02:23
いえいえ、本当に貴重な情報でした
原田さんのことを調べることなんて、なかなかありませんし
3人の周辺にいたミュージシャンのファンには、きっと他にもいろんな情報があるはずなんですよね
そういうところの情報が欲しいものです

原田さんはウツとも組んでいたから、木根さんに限らず、意外とTM関係者に近いんでしょうね
クララ
2015年06月17日 00:48
今見たら本文に名前が出ててびっくりでした。こうやって細やかに手を加えて発展させ続けるんですね。管理人さんの責任感と情熱に感謝です。

1つだけ、すみません。最初のコメのお返事、「タイムトラベラー」じゃなくて「タイムトラベル」なんです。すみません、今頃^^;;;
まあ、いいんですけどね。木祢さんも言ってたし、今じゃ私も真二くんより宇都宮さんなので(ひどい;)
青い惑星の愚か者
2015年06月19日 03:52
このブログの裏目的は、昔のことを知っている人に私の文章をチェックしてもらうというものなので、何か教えてもらったら随時アップしていますよ!

タイムトラベラー、失礼しました(^^;
タイムトラベル、原田さんがテレビで弾き語りしているのを見て、カッコいい曲だなあて昔思ったんですよ
昔はカーリーヘアでこれ歌っていたんですよね
クララ
2015年06月19日 11:26
すみません、こちらこそ木根さんの漢字ミスってしまいました(^o^;)
改めて考えると真二くんはTMの3人とバラバラに接点があったんですね。宇都宮さんに提供したオーバートーン聴いてみたいんですが、海外にいてちょっと難しそうなので残念です。
ブログの更新を楽しみにお待ちしていますね。長々すみません。
青い惑星の愚か者
2015年06月30日 04:50
overtoneは海外在住だと、なかなか難しそうですね
iTunesとかもダメなんでしょうか
てっきり原田さんつながりでovertoneからウツ→TMと思っていましたよ
ウツと原田さんて、overtoneの時だけだったのかな
とびえもん
2018年11月24日 21:49
えー

昨日のウツソロファイナルの打ち上げにて

スピードウェイ参加前の哲ちゃんをライブハウスで見ていたという人がいました!

あまり詳しい話はできませんでしたが…
青い惑星の愚か者
2018年12月06日 04:34
うっそ!! それすごいじゃないですか!
そんな人が今のウツライブに来るんですね!

SPEEDWAY以前というと、銀星団はそもそも顔が見えないですし、
イラプションはコンテストがメインてイメージですし、ギズモでしょうかね。
気になるなああ。
とっち
2019年01月11日 21:42
初めまして。ブログいつも読ませて頂いております。決して表に出てこないような情報など大変興味深いものばかりです。

1つだけ、アミダばばあの唄についてwikiや様々なサイトでも小室さんがキーボードを弾いていると書かれていますが、音楽と罪のサイン会で小室さん本人に聞いてみました。アミダばばあの唄は参加していないとのことでした。ホタテのロックンロールのことも話されていたので、小室さん自身が忘れているとは思いませんでした。

あと、工藤順子さんの茜色のカーニヴァルはシングルではなくアルバムです。



とっち
2019年01月11日 21:46
罪と音楽→◯
音楽と罪→✖

間違えました。すみません。
青い惑星の愚か者
2019年02月03日 01:37
茜色のカーニヴァルはケアレスミスでした。
あみだババアは誤解していました。考えてみれば確実な資料でこれに言及したものはありませんでした。どこかで情報が錯綜して広がっていて、私もひっかかってしまったんでしょうね。さらに私がそれを広げてしまい…となるとかなり罪深い話です。
修正しておきます。ご指摘ありがとうございました!
しかしお話できる貴重な機会に、あみだババアの話で時間を使ってしまうとは(笑)
赤とんぼ
2019年02月06日 06:31
雑誌「ヘドバン」の小室さんインタビューによる浅草ニューイヤーロックフェス情報です。
小室さん曰く、
「4~5年は出てた」
「確実に覚えてるのは、上田正樹さんに「ビートルズ弾けるだろ」って言われて、弾ける曲だったんでやったのは覚えてるけど、あと2バンドくらいやった記憶がありますね。亡くなっちゃいましたけどジョー山中さんに「おまえ、オルガン弾けるだろ」って言われて弾いたりとか。まだ18とか19歳ですからね。」
「パルコに移ってもまだ僕は出てましたから。」
とのことです。

http://www.nywrf.net/php/all.php
↑こちらのサイトで調べたら、浅草から渋谷西武劇場(=渋谷パルコ劇場)に移ったのが1982年末みたいなので、1982年も出演してたっぽいです。
西武劇場がパルコ劇場に名前が変わったのは1985年らしいのですが、TMデビュー後ですし流石にもう出てないのでしょうかね。
でも小室さんの「西武劇場」じゃなくて「パルコ」という言い方からすると1985年も出てたのかな?とも思うし…謎です。
赤とんぼ
2019年02月09日 16:05
何度もすみません(;_;)
上記コメの補足というか、訂正です。
ウィキペディアのみしか読んでなくて誤解していたのですが、
パルコ劇場公式サイト(http://www.parco-play.com/s/parcotheater/)によると、1973-1976が西武劇場、1976-1985がPARCO西武劇場、1985-がPARCO劇場という名称だったそうなので、小室さんの「パルコ」という言い回しに引っかかる必要は無かったみたいでした…。85年以前もPARCOという名称は付いてたんですね…。
青い惑星の愚か者
2019年03月24日 04:04
おお、貴重な情報ありがとうございます。
4~5年出てたて、結構長かったんですね。
1980~82年の3年は確実だとして、
78・79年や83年にも出ていた可能性はありますね。
まあ古い記憶だから、年数も確実ではないと思いますけど。

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    Excerpt: ◇2013/1/25 「Childhood's End」期の記事から、 「1-9 Childhood's End」「1-14 Timemachine Cafe」「1-15 Dragon The F.. Weblog: 20 Years After -TMN通史- racked: 2013-01-26 00:56

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