0-6 小室脱退後のSPEEDWAY

小室哲哉はSPEEDWAYに加入して、
楽曲制作で大きな役割を果たしただけでなく、
様々な企画を考えるアイデアマンとしても活躍した


その中で、全国7都市を回るツアーも計画された
会場名はほとんど分からないが、
東京・静岡・名古屋・大阪・神戸・京都・金沢を回ったらしい
移動は車2台で行なった


ただ客はほとんど入らず、
木根によれば半分以上の会場は客がゼロだった
「半分以上」というのは木根が話を盛っている可能性もあるが、
観客のいない会場が複数あったのだろう
会場のスタッフのみを前に2時間の演奏を行なったこともあったという


デビュー前のフリースペース時代には、
地元で数百規模の動員を達成していたから、
東京はある程度客が入ったはずだと思いたいが、
地方ではまったく知られていなかったと考えられる


そんな中で1980年11月初め(1日か2日頃)には、新宿RUIDOでのライブが開催された
11月5日の「Base Area」発売に先駆けたものである
この日は当時のSPEEDWAYにとって重大な日になった
小室哲哉から重要な提言が行われたのである


それは、今のSPEEDWAYでは無理だというものだった
おそらくアルバムのレコーディングを経て、
ライブを終えた上での結論だったのだろう
ウツと木根は、小室がこの時にSPEEDWAY解散を主張したと述べている
(1996年「Only One Night Dream Away」MC)


しかし2015/4/17「TM NETWORKのオールナイトニッポン」では、
小室が初めてこの件について口を開いた
これによれば小室は、たしかにあえてきつめに「SPEEDWAYは無理だ」と言ったが、
その真意は必ずしも解散ではなかったようである


すなわち7人という大所帯のバンド形式は古いから、
もっと少人数に絞るべきだと言ったとのことである
リーダーの木根とボーカルのウツ(と当然小室自身)を含む数人に絞ろうということだったのだろう
「ドラムとか要ります?」などとも発言したらしい


SPEEDWAYはフリースペース時代以来、
木根の音楽仲間によって継続的に活動を続けてきたバンドである
木根は仲間みんなでバンドを成功に導きたいと思っていたに違いない
それは逆に、音楽的に不要なメンバーであっても切ることができない構造でもあっただろう


だがシングルリリース後、
アルバム発売直前になっても売れる気配がない現実を前に小室は、
もうお友達だけで音楽をやっている場合ではないと感じたのではないか
それは上の指示で動かざるを得なかったギズモ時代や、
プロバンドのBow Wowメンバーとともに活動していた銀星団時代に培った現実的な感覚だったのだろうと思う


しかしウツと木根が、これを解散の主張と受け取ったことから見るに、
小室の考えは他のメンバーには届かなかったと思われる
木根もバンドの形態を捨てることには同意しなかった
ましてや切り捨てるべきだとされたメンバーにとっては受け入れがたいものだっただろう
しかも年下で、後から入ってきたヨソモノから言われたとなれば、なおさらである
(さすがに小室もメンバー全員の前で発言したわけではなかったのかもしれないが)
一部のメンバーが小室に対して良い感情を持っていなかったことは、木根も語っている


別の時の木根の発言によれば、
小室はSPEEDWAYをTMのルーツとする木根の考えに同意していないらしい
おそらく小室が「オールナイトニッポン」で、
SPEEDWAYの改革提言の件を話したのも、
SPEEDWAYとTMに直接の系譜関係はないということを述べたかったのだろう
つまり大所帯のバンド形式ではなくメンバーを絞るという方針を実現させたのがTMであり、
その点でTMは、むしろSPEEDWAY体制を否定した1980年の発言の延長にあると、
小室は考えているのではないだろうか


そう考えた時、同じ頃に小室が始めていたユニットであるSTAYは、
レコーディングやライブの時に必要な人員をその都度集めるという形態を採っており、
明らかにSPEEDWAY的な体制の対極にあった
そしてTM NETWORKにつながる体制は、
むしろこのSTAYの系譜を引くものと考えても良いと思う


実は1980年の間には、小室がすでにSTAYの活動を始めていたことが知られる
小室は1981/10/17のSTAYライブのMCで、
「去年の暮れくらいに二回くらいやった曲を一曲やります」と発言しており、
1980年の終わり頃にはライブを二回行っていたことになる
当時の小室が考えていた音楽活動の形態はSTAYのような形であり、
SPEEDWAY的なバンド形式は「古い」と感じられてしまったのだろう


ただし公式サイトによるとSPEEDWAYは、
新宿RUIDOライブの後も、京都・大阪・金沢などでライブを行なったらしい
この中で京都・金沢には小室も行ったことが知られるので、
おそらく小室もしばらくはSPEEDWAYとしての活動を続けていたのだろうが、
その頃にはSPEEDWAY脱退も視野に入れ、次の活動を始めていたのだろう


その後SPEEDWAYは解散する
その時期は明確ではないが、
レコード会社と年度契約を結んでいたとすれば、
1981年3月の契約切れを以って活動を一区切りさせた可能性が高いだろう


少なくともウツは、それから数ヶ月後、
サウスウェルというバンドに入っていた
木根によれば、サウスウェルはSPEEDWAYの弟分のようなバンドだった
1979/11/5に新宿ロフトでSPEEDWAYと対バンを行っており、
遅くてもこの頃には活動を始めていたらしい
その後1981年頃にボーカルが抜け、ウツが加入したのだろう
ウツが言うには、助っ人のような気持ちで歌っていたという


「アサヒグラフ」1981/7/17付けの号の特集「屋根裏のロック」で、
サウスウェルの写真が掲載されている
(GAUZE氏提供資料による)
ウツも含め全員Gパンで青のアロハシャツを着ており、
写真はギターの立岡正樹のソロの場面らしい
立岡は後のTM NETWORK二代目マネージャーで、
現M-tres(ウツの事務所)の代表である
撮影の日時は不明だが、
ウツは6月頃にはサウスウェルにいたと見られる


サウスウェルの演奏風景



サウスウェルはその後、
「第22回YAMAHAポピュラーソングコンテスト」に出場した
「マイホームタウン」という曲で地区予選を通過し、関東甲信越大会まで進んだ
この時まではウツも参加していたことが知られる
だが地区大会では観客投票で落選してしまう
結局は主催者推薦枠で本選(1981/10/4)に出場できたのだが、
嬬恋村のつま恋エキジビションホールで行われた本選では別のボーカリストが歌っている
ウツは9月以前に地区大会を以ってサウスウェルを脱退したと見られる


ウツの後、サウスウェルのボーカルは山本英美(男性)が務めた
となれば、嬬恋大会で歌ったのは山本だろうか
サウスウェルは1982/7/25に吉祥寺シルバーエレファントで、
SPEEDWAYと対バンライブを行なっていることも確認できる
山本英美時代のサウスウェルはこの頃までは活動していたらしい
山本は後に1987年にソロミュージシャンとしてデビューし、
現在まで木根と関係を持ち続けている


なお「ポピュラーソングコンテスト」のグランプリは、
アラジンの「完全無欠のロックンローラー」だった
アラジンはこの曲で同年11/14にデビューするから、
サウスウェルも優勝すればデビューできていたのだろう
ただしその場合、TM NETWORKは生まれなかったことになる


この時本選まで出場したバンドの曲は、
LP「The 22nd Popular Song Contest」に収録されており、
「マイホームタウン」は作詞石坂健一郎、作曲山田晃大となっている
(GAUZE氏提供情報)
メンバーとしてはボーカルの他にエレキギター2人、ベース、ドラム、キーボードが確認できる
今後も日の目を見ることはないと思われるので、歌詞の一部を以下に引用しておこう

ひとり暮しに吹き込む風は むねの中にしみるばかり
グレーな日々につかれた時は 古い写真に目をやるのさ
あけはなす窓つかの間だけ よごれた陽ざしあびてみても
ビルの谷間のこの部屋では 空の広さはわからないよ
My Home Town おまえだけ(Set me free)
俺から捨てた街なのに
My Home Town この想い(Love is gone)
心のすみからはなれない


ともかくウツは9月頃にはフリーの立場になっていたはずである
一方の木根は1981年4月頃、
西条秀樹のバックバンドのポップンロールバンドに所属する一方で、
SPEEDWAYへの思いも捨てきれず、
春頃には自らボーカルを担当してSPEEDWAYとしてライブを行なったことがあるが、
やはりうまくはいかなかったらしい
SPEEDWAYは川村ゆう子のバックバンドとして活動することもあったが、
ボーカルは不在で、ライブを行うのは困難な状態が続いていたものだろうか
なおSPEEDWAY公式サイトでは、1981年に解散とは書いておらず、
小室が脱退して、一度脱退したパーカッションの荒井カツミが復帰したという様に、
メンバーの変更があっただけのように書いている


そのような時、木根はウツのサウスウェル脱退の話を聞いて、
再びSPEEDWAYに呼び戻した
小室は10月17日に行なったSTAYのライブで、
サポートの荒井カツミとハタケンを紹介する時に、
「SPEEDWAYってのもまだあるんですよ。そのうちやるみたいです」
と言っている
この頃にはSPEEDWAYは実質的に活動休止状態だったが、
再開予定(再開以前)でもあったようである
そして後で見るように、SPEEDWAYは12月以前に活動を再開する
つまりSPEEDWAYの本格的な活動再開は1981年10~12月と考えられる


以上の流れをウツの立場から整理し直すと、
3月のSPEEDWAYのプロ契約切れに伴い、
4~6月頃にサウスウェルに移籍したが9月以前に脱退し、
12月以前にSPEEDWAYに合流したと考えられる


polytopeさんの情報によると、「ぴあ」で1981年12月以降翌年まで、
SPEEDWAYが渋谷・原宿などを拠点に、
継続的に活動していた様子を知ることができる
「0-3 小室哲哉と音楽の出会い」「0-7 小室・木根・ウツその後 」コメント欄)
ただし1982年10月以降の情報は未確認である

・1981/12/28小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/1/17小室哲哉 and STAY、スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/2/21 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/3/7 スピード・ウェイ@渋谷屋根裏昼の部
・1982/4/10 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
・1982/5/8 SPEED WAY@渋谷屋根裏昼の部
・1982/6/26 HELLO、WEEKIDS、SPEEDWAY@原宿クロコダイル
・1982/6/27 SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
・1982/7/25 サウスウェル、SPEED WAY@吉祥寺シルバーエレファント
・1982/7/26 SPEED WAY@原宿サンビスタ
・1982/9/11 坂本めぐみ、SPEED WAY@原宿クロコダイル
・1982/9/16 SPEED WAY、IKUMI BAND@立川38 avenue


これを見るにSPEEDWAYは、1982年前半までは渋谷屋根裏を、
その後は原宿や吉祥寺を拠点としたらしい
公式サイトによればこの時期のSPEEDWAYは、
「屋根裏、EGGMAN、シルバーエレファント等ライブハウス」で活動した
屋根裏は渋谷、シルバーエレファントは吉祥寺のライブハウスで、
上記にも見える
EGGMANは渋谷EGGMAN(1981オープン)だろうが、
上記には見えないので、他のライブ活動もあったに違いない


おそらくこの頃のことと思うのだが、
SPEEDWAYは一部でコント、二部でライブを行なうこともあった
これはウツのアイデアで、
ずっとライブをやっていると行き詰るのでコントをやろうということになったという
脚本はすべて木根が書いた
木根がアマチュア時代のことと言っていることを重視すると、
1979年のデビュー以前とも考えられるが、
その頃には屋根裏での活動は確認できないので、
一応今は再結成期と考えておく
(もちろんアマチュア時代の屋根裏ライブが現在確認できていないだけの可能性もある)


後にTM時代の木根は、
コメディドラマ「日本一のバンド男」(1985年「TM VISION Ⅲ」)、
ラジオ企画「TM NETWORK物語」(1987年「小室哲哉のSF ROCK STATION」)、
イベント「Party Pavilion」(1992年)などで脚本を担当するが、
その前提にはアマチュア時代のこうした試みもあったのである
あるいは「CAROL」に始まる木根の小説家活動の前提として考えても良いかもしれない


気になるのは、この時期のSPEEDWAYと小室の関係である
小室はSPEEDWAYの体勢に批判的な発言をしたこともあり、
両者の関係は複雑なものがあったことも想像できる
だが再結成当初のSPEEDWAYは小室哲哉 and STAYと対バンしていたし、
岩野光邦・ハタケン・荒井カツミはSTAYのレコーディングやライブに参加したこともある
全体として見れば、両者の関係は険悪だったというわけではないのだろう


また2007年、小室の一声でTM NETWORKが再開した時、
コンセプトとされたのは、
あのままSPEEDWAYを続けてサードアルバムを作ったらどうなっていたのか、
ということだった
SPEEDWAYの曲がiTunesで配信されるようになったのを小室が聞き、
曲の良さを再認識したことがきっかけだったらしい
小室にとってのSPEEDWAYの位置が、この頃再浮上したようである


そもそも小室がSPEEDWAY時代を肯定的に振り返ることは、
これ以前にはほとんどなかった
だが2006年頃の小室は大量のプロデュースワークもやめ、
DJTK名義で過去曲のリミックスを中心としていた頃であり、
自らのルーツに対しての意識が高まってきたものと思われる

(2006/8/5執筆 2006/11/24、2008/9/8、2012/11/27、2014/1/12、2016/10/3、2017/8/26追記)


SPEEDWAY
よしもとアール・アンド・シー
2007-12-05
TM NETWORK
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この記事へのコメント

GAUZE
2008年09月10日 01:52
はじめまして。いつも最新記事と参考になるデータを楽しく拝見させていただいてます。「サウスウェル」についての情報なのですが、今は亡き「アサヒグラフ」という朝日新聞系列のグラビア雑誌で1981年7/17号に一枚だけですがカラー写真が載っています。「屋根裏のロック」と題された特集を組んでおり「P-MODEL」「リザード」「子供ばんど」等といったバンドとともに掲載されています。メンバー全員Gパンに青のアロハシャツを着ていて手前にギターを弾く立岡さん(たぶんGソロ弾いてるっぽい)、その隣でUTSUさんが手拍子をしています。レコード・CDで「SPEED WAY」の写真は見ていましたが、「サウスウェル」の写真が公式の雑誌に載ってるとは思わなかったので発見した時は衝撃を受けました。添付できないのが残念ですが参考になればと思い投稿しました。これからも更新記事楽しみしています。
蒼い惑星の愚か者
2008年09月10日 21:39
もっとも見つからなそうと思っていたサウスウェルの資料ですが、存在するんですね!
それはすごいお宝だなぁ…
P-MODELとかと一緒に出ているって、もちろん同列の扱いではないんでしょうけど、アマチュアにしては結構な扱いですよね
個人的にはP-MODELの写真も見てみたいですが…
さっそく記事を再更新しておきました
どうもありがとうございます
GAUZE
2008年09月12日 00:02
こちらこそ、まさか僕の情報で記事を更新していただけるとは。本当にありがとうございます。古いグラビア・ゴシップ雑誌はなかなかあなどれませんね。あと「P-MODEL」の写真ですが、残念ながらメンバーの顔が見にくいんですよね(泣)。平沢さんは鼻から上写ってないし・・・。もっと良い写真あっただろうに・・・。また良い情報がありましたら連絡しようと思います。これからもブログの更新楽しみにしています。
M
2017年03月03日 14:40
何年前でしたか、20年以上前になりますが現在は女優として活躍されている
原日出子さんがトーク番組のゲストで話されていた一部の内容を思い出しました。
彼女によれば木根さんのバンドで歌ったりしていたようですね
バンドの機材搬入のお手伝いをしたり、一番驚いたのはウツさんとこの当時交際してた?と仲間内で噂になったこともあったようです。
彼女にとってはTMNはTOKYO(もしくはTAMA) MUSIC NETWORKの略だと懐かしく話されてました。

いかんせんこういった話は書かないでいるべきか控えるべきか少し考えました。
不適切でしたら削除してください。お許しください
青い惑星の愚か者
2017年03月11日 05:14
全然知らない話でした。
原さんが木根さんのバンドで歌ったと言うのは、これだけ見ると木根さんが主で原さんが従みたいに聞こえますが、実際にはテレビ出演時に木根さんが後ろで演奏していたということでしょうね。西城秀樹さんのバックバンドに木根さんがいたみたいに。
原さんは1981年歌手デビュー、1983年結婚ということなので、81~83年、SPEEDWAYプロ契約解除後の話でしょうか。
ウツの交際の件は事実かはよくわからないですが、こういう話が出るのはなかなか珍しいですよね。

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    Excerpt: ◇2013/1/25 「Childhood's End」期の記事から、 「1-9 Childhood's End」「1-14 Timemachine Cafe」「1-15 Dragon The F.. Weblog: 20 Years After -TMN通史- racked: 2013-01-26 00:56

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